じじぃの「ダーウィン・モースの大森貝塚!150年前の科学誌『NATURE』には何が」

Omori Shell Mounds 大森貝墟の碑 Edward S. Morse "Finding the First Forager" Forager Japan Tour Part 1

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tGjSlEa93_I

Edward S. Morse Memorial - Omori Shell Mounds Garden - Omori


150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか 紀伊國屋書店

瀧澤 美奈子【著】
【目次】
序 なぜ今、150年前の科学雑誌を読むのか(本書の目的)
第1章 Nature創刊に託された思い
    ・
第7章 モースの大森貝塚
第8章 Nature誌上に見る150年前の日本
付録 初期のNatureに何度も載った日本人
【感想・レビュー】
●うーん、面白い。最初のカッコウの卵の色を巡るやりとりからずっと。ダーウィンの「種の起源」対するオーウェンのリアクションは、嫉妬なのかな?分かっていたけど、発明品のほとんどが、海の向こう。この漢字だって中国の漢民族。日本の再興がロケットスタートできたのは、西洋文明のおかげと肝に銘じたい。大森貝塚の知られざる事実には驚いたし、モースが本を寄贈してくれたことに感謝。

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『150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか』

瀧澤美奈子/著 ベレ出版 2019年発行

第7章 モースの大森貝塚 より

大森貝塚の発見をnatureで報告

1877年6月19日、2日前に日本に到着したばかりのアメリカ人動物学者、エドワード・モース(Edward Sylvester Morse:1838-1925)が大森貝塚を発見しました。大森貝塚は、今では縄文時代後期から末期の貝塚として広く知られています。
その大森貝塚について、発見から5ヵ月後の1877年11月29日号のnatureに、「初期の日本人の痕跡」という題名の報告記事が出ています。日本に滞在していたモース本人が、発掘を始めてから5日後の9月21日に書いたものです。貝塚発見に至った経緯と、発掘の様子や発掘物についてのことが明快に書かれていますので、本書で紹介したいと思います。
すでに明治維新から10年近くたっていましたが、欧米の学術界にとって日本はまだ研究対象として新鮮だったようで、次のように始まります。

  日本の起源に、非常に大きな関心が寄せられている。日本の初期の人種に関するどんな情報でも、Natureの読者は興味があるだろう。貝塚(shell heap)の発見と調査は、この島を先史時代に占拠した人種についての多くの足跡を明らかにするだろう。

そして大森貝塚を発見した経緯については、次のように述べています。

  今年の6月、初めて東京に向かったとき、汽車の窓から大森と呼ばれる駅の近くで、貝塚の細かい部分を見つけました。それは私がニューイングランドの海岸沿いでよく研究したものと似ており、すぐに貝塚だと認識できた。

のちほど述べるモースの報告書によると、モースは来日したときから「貝塚がないかと注意を怠らなかった」といいます。

大森貝塚に関する間違ったレビュー

それから3年後、モースの大森貝塚を話題にした記事が1880年2月12日号のnatureに掲載されました。幕末にイギリス海軍軍医として来日し、帰国後は日本文学を翻訳したことで知られるフレデリック・ディキンズという人物による投稿です。
なぜこのタイミングでnatureに大森貝塚の話題が取り上げられたかというと、前年(1879年)の9月に、モースによって発掘報告書が発表されたからです。

モースの代理投稿をしたダーウィン

その2か月後に、ついにモースからのディキンズへの反論がnatureの読者投稿欄に掲載されます。1880年4月15日です。
ただし、これは少し変わった体裁の投稿でした。署名がモースではなく、あのチャールズ・ダーウィンなのです。
モースがディキンズのレビューに異議を申し立てる手紙をダーウィンに送り、ダーウィンがその私信を「モースが公表されることを願っている」としてnatureの読者投稿欄に投稿したのです。
なぜモースが直接nature編集部宛てに投稿しなかったのかはわかりません。投稿したのに掲載されなかったのかもしれません。このころのnatureの読者投稿欄には投稿が殺到していたようで、「なるべく短い文章で書いてほしい」という編集部からの注意書きがついています。そういう状況ですので、ダーウィンの投稿なら、多少長くても掲載されるという判断をしたのかもしれません。ダーウィンやハクスリーは、たびたびこの種の代理投稿をしています。
ダーウィンはモースのために一肌脱いだわけですが、モースとダーウィンはそもそもどういう関係だったのかというと、モースはダーウィンの進化論を信奉しており、二人には親交がありました。そのため、モースは、日本滞在中には講義や講演で熱心に進化論を日本人にも紹介しました。
面白いはモースじゃもともと米国動物学の祖といわれたルイ・アガシーの弟子です。アガシーは、ダーウィンの進化論に反対する立場をとっていたことが知れ渡っていました。ふつうに考えれば、モースもその立場に従うところです。
しかし、モースは腕足類の研究を重ね、自分で進化論をテストするうちに、徐々にその正しさを確信し、結果として師匠の立場に背いたのです。