じじぃの「近代化前の日本・The Japanese!150年前の科学誌『NATURE』には何が」

Top 5 Things to do Around Fuji | japan-guide.com

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QZQaO3VNL3o

ミカド (オペレッタ)


ジャポニスム

ウィキペディアWikipedia) より
ジャポニスム(仏: Japonisme)は、19世紀後半にヨーロッパで流行した日本趣味のこと。英語ではジャポニズム(英: Japonism)と表記するが、本稿では仏語の「ジャポニスム」に表記を統一する。
19世紀中頃の万国博覧会国際博覧会)への出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、ヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた。
【イギリスにおけるジャポニスム
イギリスでは、1862年ロンドン万国博覧会により日本の陶器や置物など日本文化への関心が高まった。
美術界では、ロセッティ・サークル(画家のロセッティを中心としたラファエル前派のグループ)の人々を中心に日本熱が起こった。明治になると日本の軽業師が多数海外で興行するようになり、イギリスでも1870年代にはすでに手品や曲芸を見せる興行が打たれていた。1873年のウィーン万国博覧会後、そこで展示されていた建物と庭園がアレクサンドラ・パレス&パーク (Alexandra Palace and Park) に移築され、日本村Japanese Villageと呼ばれた。1885年にはロンドンのナイツブリッジにジャパニーズ・ヴィレッジ(日本村)と呼ばれる日本の物品を販売したり見世物をしたりする小屋ができ、同じころサヴォイ劇場では、ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによるオペレッタ『ミカド』が大当たりを取っていた。また、リバティ百貨店は日本風デザインの布地や家具を販売し始め、女性誌では日本風を取り入れた新しいドレスが誌面を飾るようになった。

                  • -

ミカド (オペレッタ)

ウィキペディアWikipedia) より
『ミカド』 (The Mikado; or, The Town of Titipu ) は、ウィリアム・S・ギルバート脚本、アーサー・サリヴァン作曲による二幕物のコミック・オペラ(英国式オペレッタ)。
ギルバート・アンド・サリヴァンの14作品のうち9作品目であった。1885年3月14日にイギリスのロンドンにあるサヴォイ劇場で初演されて672回上演し、当時の歌劇史上2番目の上演回数を誇り、舞台作品の中でもロングラン作品の1つとなった。1885年の終演までにヨーロッパやアメリカで少なくとも150カンパニーが上演した。現在もサヴォイ劇場でしばしば上演されているだけでなく、アマチュア劇団や学校演劇でも演じられている。様々な言語に翻訳され、歌劇史上最も多く上演される作品の1つとなっている。

                  • -

150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか 紀伊國屋書店

瀧澤 美奈子【著】
【目次】
序 なぜ今、150年前の科学雑誌を読むのか(本書の目的)
第1章 Nature創刊に託された思い
    ・
第7章 モースの大森貝塚
第8章 Nature誌上に見る150年前の日本
付録 初期のNatureに何度も載った日本人
【感想・レビュー】
●本書は、「Nature」がどのような理念が掲げられて出発し、どのような道のりを歩んできたのか、雑誌制作に関わった科学者らの具体的な活動を通して明らかにしていきます。物事の普及に努めようと専心する人々の高邁な精神は、動き始めた当初においてこそ多くを感じることができるのかもしれません。一般大衆を第一読者と想定していたのは興味深いですね。本書を読み進めるには科学的な知識は不要です。著者は、「Nature」にならって対象となる読者を一般人としているのでしょう。科学に対する情熱が余すところなく伝わる労作です。

                  • -

『150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか』

瀧澤美奈子/著 ベレ出版 2019年発行

第8章 nature誌上に見る150年前の日本 より

Ⅰ 近代化前の日本は外国人にどう映ったのか

The Japanese――日本人に関する特集記事

  日本はまだ世界がほとんど知られない国である。しかし、ゆっくりとしてはいるが、固く守られたこの島々にさえ、進歩の大きな波が押しよせている。

このような書き出しで、natureの創刊からわずか7週目の1869年12月16日号に、「The Japanese」と題する記事が掲載されています。
このころnatureに掲載される海外の話題としては「インドのコーヒーの木」や「中国の烏有論」「タスマニア人の起源」など、「どこどこ国の〇〇」というように、外国での植物学、天文学、人類学など学問の話題が定番です。しかし、この「The Japanese」だけは、Theのついた題名どおり、「日本」というひとつの国を真正面から捉えた記事でした。まずはそのことに驚きを感じます。
日本の緯度・経度や富士山、黒潮に始まって、そこに住む日本人の外見上の特徴、日本人が信じている宗教、日本人のマナーや習慣、皇室、浮世絵や工芸品、死生観までが書かれています。
筆者が知る限り、一国を丸ごと対象にした長い記事は、150年間のnatureの歴史のなかで日本に関するこの「The Japanese」が唯一です。
鎖国で国外への情報発信がほとんどなかったのですから、日本国は未知のベールに包まれており、なにもかもが彼らの興味の対象だったのでしょう。全3ページの長い記事にするにふさわしいほど、日本はnatureの読者に紹介したいコンテンツにあふれていたのです。

ヨーロッパから見た維新直後の日本

記事を紹介する前に、当時の日本がどういう立ち位置にあったのかを簡単におさらいしましょう。日本は200年の鎖国の眠りから覚めたばかりで、貿易が許されたのは長崎に加えて横浜、神戸、箱館のみ。江戸に入ることを許されたのは西洋人は外交官だけで、冒頭で述べているように「世界がほとんど知らない国」でした。
日本人と欧米諸国との接点が急激に増え、日本人にとってそうだったように、彼らから見ても日本の存在は刺激的でした。
1867年のパリ万国博覧会に展示された日本の漆器や刀剣、浮世絵などはとても洗練されており、<ジャポニスム>というムーブメントをひき起こしました。そういう品々を見るとどうやら未開の国でもない、かといって自分たちとはかなり違う不思議な国が、いよいよ自分たちに向けて、突然、通商の扉を開いたのです。世界を股にかけて商売をしていた彼らは、がぜん興味をかきたてられたことでしょう。

ジェーン・アグネス・チェッサー

「The Japanese」の記事を書いたのは、ジェーン・アグネス・チェッサー(Jane Agnes Chessar:1835-1880)というイギリス人女性です。教育者であり、ロンドン教育委員会の委員も務めた人物です。第5章で見たように、当時のイギリスでは知的職業は圧倒的に男性が占めていましたが、教職だけは例外でした。女性がほとんど社会進出できなかった時代に、教育委員まで勤めたということですから、チェッサーは新時代の先駆け的な存在であったことでしょう。
チェッサーの生い立ちについてはほとんど記録がありませんが、中流階級出身で3人姉妹のひとりとみられます。父親はこの時代としても早逝の44歳で亡くなっており、早くから経済的自立にせまられました。
チェッサーはロンドンで教育を受けた後、18歳ごろからロンドンのホーム・アンド・コロニアル・トレーニングカレッジで教職につき、1867年まで15年ほど勤めました。
そこで彼女は教師としての才能を発揮します。彼女のいるカレッジに入学した新入生は、最初の週が終わるまでには、彼女の優れた人間性に感化され、「彼女のように優雅なマナーを備え、正義感に路あふれた優しい人物になろうと決意した」という記事が残っているほどです。
チェッサーは文才にも優れており、カレッジの刊行物や、当時女性誌として人気のあった雑誌『The Queen』をはじめ、新聞などを寄稿したり、自然地理学の雑誌の編集も行ないました。