じじぃの「歴史・思想_47_アインシュタインの旅行日記・日本人の清潔さ」

天才アインシュタインは神をどう考えていたのか?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zua3_mD1p2Q

Einstein Visited Japan

アインシュタインの旅行日記 - 日本・パレスチナ・スペイン - アルバート・アインシュタイン

アルバート・アインシュタイン/著、Z・ローゼンクランツ/編、畔上司 /訳 草思社 2019年発行

日本と日本人についてのアインシュタインの見解 より

ここで、アインシュタインが旅行以前に日本についてどう思っていたかを見てみよう。すでに述べたように、日本からの招聘を了承した一因は、東方に対するアインシュタインの憧れだった。西洋在住の日本受容史専門家が指摘することだが、「東方という罠」は西洋人が日本に向かうときに常に重要な要因だった。1900年のパリ万国博覧会以後、この傾向は強まった。この博覧会は西洋における日本様式流行に大きなインパクトを与えた。日本の芸術と習慣に対する熱狂は「ジャポニスム」として知られている。
だがアインシュタインの日本への関心は、どうやら異国情緒への(そして空想的な)刺激のほうが強かったようだ。旅の途中で受けたインタビューで彼は、ギリシャアイルランド人の作家でジャーナリストのラフカディオ・ハーン(1896年に日本に帰化した)の作品が旅行前の自分の日本観に影響していたと述べている。訪日前のアインシュタインは、日本のことを「おとぎ話のような小さな家と小人(こびと)たちの国」だと思っていたと語っている。日本到着から3週間後に書き上げた日本印象記のなかでも彼は、日本に対して感じている全般的な神秘感情を指摘している。「わが国にいる多くの日本人は孤独な生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいます。自分を守っているようなその微笑みの背後に流れている感情を解明できる人は一人もいません」。同文のなかでアインシュタインはこう認めている。「私は自分が日本について抱いていることすべてを明確な像にすることは今までできませんでした」

結語 より

アインシュタインは世界を半周する6ヵ月の旅を行なったが、では今の時点で、彼個人について、そして彼の全般的な意見、見解について、さらには彼が旅した流儀についてどのようなことが言えるだろうか?
先述のように、遠洋航海が始まるとほとんど同時にアインシュタインは自分自身について、そして途中で出会ったさまざまな人たちのアイデンティティについてあれこれ考えるようになった。そして彼は自身のさまざまなアイデンティティと直面することになる。具体的には、民族としてのユダヤ人、国民としてのドイツ人とスイス人、大陸別で言うとヨーロッパ人、そして地球規模で言うと西洋人といったアイデンティティと直面したのだ。
旅日記はアインシュタインがどのように海外旅行をしたか、それを理解する資料を提供してくれる。彼はヨーロッパ内の旅と違い、海外に出るとほぼ人任せになった。各国の招聘者たちにほとんどすべてをお膳立てを任せてきわめて幸せだったのだ。まさにあなた任せだった――ほとんど何もかも、そうすることにより、何事もスムーズに運んだ。長期旅行をすることによって彼は「どうにもイライラする」ベルリンから長期間離れることができた。
彼の旅行の仕方は、いわば実に多様だった。たしかにこの旅の参加者は彼とエルザだけだったから個人旅行の性格を帯びてはいたが、実際には観光客のパック旅行に近かった。
      ・
次にアインシュタインの考え方に関しては、結論としてこう言っていいだろう。先述の幾多の例に見られるように、アインシュタインは地理的な決定論を信じていた。気温が上昇し続けると彼はこう書いた。「古典古代のギリシャ人やユダヤ人は、今より怠惰でない暮らしをしていたと確信した。その時代以降、知的に活発な地域が北に移っていったのは偶然ではない。無気力に暮らすほうが安楽」
だがこの旅日記を読むと、環境より遺伝を優先する例も出てくる。香港訪問中のこと、彼は現地ユダヤ人共同体の人たちと会っている最中に、中東とヨーロッパのユダヤ人が似ていることに感慨を覚える。アインシュタインは生物学的な世界観を抱いていて、遺伝優先の考えを持っていたのだろう。皮肉なことに、生い立ちよりも自然(遺伝)を重視する考え方は、彼の地理的決定論と矛盾する。
アインシュタインの考え方で旅日記に出て来るもう1つの興味深い側面は、賞賛と倫理に関する彼の見解だ。数々の例において彼は悪臭と汚れへの尊敬を(おもに中国で)表現しているが、その彼が日本では清潔さと完璧さを高く評価している。この矛盾は、ブルジョアに対する尊敬および軽蔑と考え合わせると実におもしろい。
この旅日記は、アインシュタインの性格のなかに隠されている魅力的な矛盾を露呈している。彼はナショナリズムをひどく蔑視していたが、国民性のほうは固く信じていた。抑圧されている人たち、そして時には、搾取に共謀したことを恥じている人に対しては大いなる共感を覚えていたが、その一方で、東洋学者の見解を明らかに支持し、「賢明な」植民地主義に賛辞を送っていた。植民地の地元民の基本的人権を、常に認めていたわけではなかったのだ。