じじぃの「歴史・思想_49_アインシュタインの旅行日記・皇居・日本庭園」

Einstein's Trip to the Far East and Palestine

“I have an unimaginable longing for solitude, and that's why I'm traveling to Japan (in October), because that entails 12 weeks of rest at sea”
https://artsandculture.google.com/exhibit/QQpRfXM-

公表する意図のなかった個人的日記に記録された百年前の日本人の実像 草思社

アインシュタインの旅行日記 日本・パレスチナ・スペイン

本書は二〇一八年にプリンストン大学出版局によって刊行された“The Travel Diaries of Albert Einstein:The far East, Palestine & Spain 1922-1923 ”の全訳です。アインシュタインが一九二二年十月から翌年三月までの間に日本とパレスチナ、そしてスペインを旅した際の日記が全編網羅されているだけでなく、本人が旅先から出した書簡や葉書、旅行中に各地で行なったスピーチ原稿なども収録されています。
当時すでに世界的な名声を得ていたアインシュタインを日本に招聘したのは、数年後に「円本」を考案してブームを巻き起こすことになる改造社の社長・山本実彦で、二万ポンド(当時のレートで一万五千円強)という条件を提示して、「長いあいだ極東の人々の文化に関心を抱いていた」アインシュタインを極東に招くことに成功しました。アインシュタインノーベル賞(物理学賞)受賞の知らせを受けたのは、じつはこの旅の途中の上海でのことなのですが、興味深いことにアインシュタインノーベル賞について、自身の日記の中でまったく触れていません。
本人に公表する意図がまったくなかったという事情もあり、この旅行日記においてアインシュタインは筆のおもむくままに各国の国民性について描写しています。

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アインシュタインの旅行日記 - 日本・パレスチナ・スペイン - アルバート・アインシュタイン

アルバート・アインシュタイン/著、Z・ローゼンクランツ/編、畔上司 /訳 草思社 2019年発行

旅日記 日本、パレスチナ、スペイン 1922年10月6日~1923年3月12日 より

十六日と十七日。

緑の小島が無数に浮かぶ日本の海峡を通過。絶えず変化するフィヨルド風のすばらしい景観。十七日午後、神戸着。長岡、石原、桑木。長岡氏は、華奢で上品な夫人を同伴。それにドイツ領事とドイツ人協会、シオニストたちが歓迎。大騒ぎ。船上に多数のジャーナリスト。サロンで30分間のインタビュー。大勢の人々といっしょに上陸。波止場近辺のホテルで息抜き。
晩に、教授たちと2時間の列車の旅。軽快な車両。乗客たちは窓沿いに長く2列に座っている。京都では、通りや、小さくて感じのいい家々が魔法のような光に照らされている。少し高いところにあるホテルまで車で行く。下の町はまるでまるで光の海。強烈な印象。愛くるしくて小柄な人たちが、通りを早足にカタカタ歩いている。ホテルは大きな木造建築。みんなで食事。狭い個室に、華奢で上品なウェイトレスたち。日本人は簡素で上品。とても好ましい。
晩、科学について会話。いろいろあってとても疲れた。
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二一日。

皇居の庭園で菊の祝典。体にぴったりのフロックコートとシルクハットを調達するのに大いに手を焼く。フロックコートは、どなたかがベーアヴァルト氏に渡してくださったものを同氏がわざわざ私にじきじきに持ってきてくれた。シルクハットは山本氏のものを使ったが、小さすぎたので、午後ずっと手に持っていなければならなかった。私たちは、外国の外交官たちといっしょに半円に並んだ。ドイツ大使館員が迎えに来たので同行。日本の皇后陛下はその半円のなかから外に出られて、大使館の男女としばし会話をなさり、私とは親し気なお言葉でフランス語の会話をなさった。それから庭園の各テーブルで軽い飲食。このとき、私は無数の人たちに紹介された。庭園、すばらしい人口の砂山と水、絵のように美しい秋の木の葉。小屋のなかの菊は、兵士のようにきちんと並んでいる。いちばん美しかったのは懸崖作りの菊。
晩は、ベアリーナー夫妻の魅力的な日本家屋でゆっくりとした夕べ。<彼は>聡明な経済学者、<彼女は>愛くるしくて聡明な女性で生粋のベルリンっ子。近頃のような状況では、のんびりしているほうが仕事をしているより疲れる。だが稲垣夫妻がとことん気を使ってくれる。

二二日。

10時半ゴロ、ガキ(稲垣)と山本に連れられて、改造社(出版社)の小さなビル内での会合に向かう。従業員たちが玄関先で私たちをお祝い気分で待っていてくれた。仲間意識は明瞭。山本は、角縁の大きな眼鏡の奥から子供っぽい目を輝かせていた。
編集室前の小路で全員がいっしょに撮影。好奇心旺盛な人たちが、子供たちといっしょにじっと見ていた。それから私たちは車で壮麗な仏教寺院に行った。僧侶たちの食堂を一瞥。すばらしい木彫りのある見事な建物。僧侶はとても親切で、美術品の図版・写真が入った豪華本を贈呈してくれた。中庭に行ったとき、大坂から来てそのときちょうどこの寺を見ていた愉快な女生徒たちなどと例によって写真撮影。
それから、山本の魅力的な自宅で昼食。立派な人物。彼はその小さな家に、家政婦3人と召使1人、そして書生4人を置いていた。これらの人たちは穏やかで謙虚に違いない!
午後、私たちは農家やその他の質素な日本家屋を見たが、すべてピカピカに輝いていて、親しみが湧いた。躾(しつけ)がよくて愉快な大勢の子供たち。寒さに慣れている。学士院の院長宅を訪問。彼の息子の一人がチューリヒ連邦工科大学の学生であり、H・F・ヴェーバーの弟子と判明。藤沢邸での歓迎会の件でどぎまぎ。晩は、ドイツ・東アジア協会の大歓迎会。食後、多くのドイツ人、日本人と会話。頭のなかはメリーゴーランド状態だったが、多くを学び、厚い友情を感じた。日本の学者たちはドイツに深い親近感を抱いている。日本人はドイツ人技師たちの協力を得て独自に光学工場を建設した。