じじぃの「人の死にざま_1755_ヘンリー・ダイアー(イギリスの技師・教育者)」

The Henry Dyer Collection Part 1 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=c2YqHQCSrF4
Henry Dyer



Scottish Engineering Hall of Fame
http://www.engineeringhalloffame.org/profile-dyer.html
技術者教育の父 ヘンリー・ダイアー 2011/03 ライフビジョン
ダイアー(1848 − 1918)は工部大学校都検を9年間務め、技術者教育制度を整え、多くの優れた技術者を育てた。帰国して母国イギリスで工業教育の基盤整備に努力した他、日本研究の第1人者として多くの著作を残している。しかしながら何故か、札幌農学校に僅か9ヶ月勤めたクラーク博士に比べると忘れられた存在である。
「ダイアーの日本」著者三好信浩氏は、ダイアーを我が国の近代化に貢献した恩人と高く評価しているが、ダイアーとクラークの知名度の違いを工学者と農学者との歴史認識の差であろうと説明している。工学者は過去の歴史より未来の技術開発の方が急務だからだろうと述べているが、少し違和感がある。
北政巳氏はその著書で、1880年代にプロシャが普仏戦争に勝って急速に近代化・工業化する中で、日本政府は英国流モデルからドイツ流社会モデルへ傾斜し、工部大学校が東京大学と合併して東京大学工科大学となる過程で、ドイツ人学者たちによりスコットランド人学者の教育上の業績も消去され、ダイアーの功績も日本近代史から消されたと述べている。
http://www.lifev.com/mag/index.php?MENU=%93%FA%96%7B%89%C8%8Aw%8BZ%8Fp%82%CC%97%B7&DATE=110301&BACK=110301&PAGE=
スコットランドを知るための65章』 木村正俊/著 赤石書店 2015年発行
ヘンリー・ダイアー 日本工学教育の組織化に貢献 (一部抜粋しています)
近代日本が開国するとき、西洋の科学技術や文化を導入するため、数多くのお雇い教師が招かれた。かれらは教育の経営、学事にかかわる献策などという職務を遂行した。ヘンリー・ダイアーこそ、そうした一人である。
「日本は単に完成品を輸入するだけでは西洋の技術を身につけることはできません」。「技術を買うのではなく、技術を持つ人材を育てる教育こそが日本の将来のためになるのです」。「必要なのは殖産興業のための政府機関と技術者養成施設です」。
こんな提言を受けて、明治3年(1870年)に殖産興業のために工学省が、4年には工学人材教育のための工学寮が設けられた。工学寮はやがて工部大学校(東京大学工学部の前身)へ発展し、日本の工学教育の主役になっていく。この工部大学校の中心になったのがダイアーである。
ダイアーは「鍛冶屋の子より努力立身の人」として知られる。スコットランドの開かれた教育制度を活用し、努力して自分の地位を確立したのだった。父はアイルランドからグラスゴーにやって来てショッツ鉄工所などに勤めた。ダイアーはその鉄工所に付設された小学校に学び、成績優秀につき系列の会社に勤め口が与えられた。やがて鋳物工場に師弟修行に入り、夜間には勤労者の学びの拠点であったアンダソン・カレッジ(今のストラスクライド大学)に通った。5年間の師弟修行が終わると、今度はグラスゴー大学に進んだ。
グラスゴー大学はオックス・ブリッジのような宗教審査などなく、勤労者にも開かれていた。ここでもダイアーは成績優秀につき数多くの受賞に輝き、奨学金をえて勉学に励むことができた。なかでも貧しい技術者の高等教育への道を拓いたホイットワース奨学生に選ばれたことは、ダイアーの誇りでもあった。
徒弟修行でも大学でも優秀であったことから、恩師のM・ランキン教授の水仙を受けて日本に招かれた。明治5年(1872年)の秋、岩倉使節団の英国訪問のとき、副使の伊藤博文がランキン教授に人選を依頼し推挙されたものである。
ダイアーは、明治6年6月に来日。明治15年6月まで、工学寮および工学大学校の初代校長(都検)、土木・機械工部教授として勤務し、ランキンの人脈で構成された教師陣を率いて工学教育の組織化にあたった。その際、工学省の要職にあった山尾庸三から全面的な支援を受けることができた。2人はかつてアンダソン・カレッジの夜間課程に学んだ同窓生であった。
      ・
ダイアーの構想と実践は、英国にもヨーロッパにも単独のモデルをもたない独自なものであった。ダイアーを送り出した英国では、1851年と1867年の2つの万博博覧会をきっかけに、学校教育形態での技術教育の組織化が国家的な重要事だとの認識が高まり、他国の実態調査が行われていただけに、早い時期から驚きと賛辞をもって繰り返し紹介された。『ネイチャー』誌や『エンジニア』誌では、英国が体系的なエンジニア教育の点で後れを取っている間に、日本では政府主導による大事業が行われていることや、工部大学校における「作業現場における実務体験と結び付いた高度な科学的教育」こそまねるべきである、などという記事がみられる。
このようななか、明治15年(1882年)にスコットランドに帰ったダイアーは、工部大学校での教育体験を還元させた。たとえば、1887年にグラスゴー・西部スコットランド技術カレッジが創設されると、その理事に就任し、工部大学校の実践にもとづいた専門学の学科ならびに各学科の授業科目を編成するなど指導的役割を果たした。
      ・
ダイアーは帰国後も日本と親密な関係を保ち、日英交流の推進に寄与したことも注目される。たとえば、グラスゴーに機械学や造船学を学びに来た大勢の日本人学生を支援した。グラスゴー大学で資格試験に日本語が認定される際(1901年)には、その実現を支援した。東京帝国大学で商船設計製図教育を担当するお雇い造船学教師の選考が難航したときは、適任の候補者を見いだし推薦した。(1897年)。『大日本』(1904年)、『世界政治の中の日本』(1909年)などという日本研究書を刊行して、「日本の国家進化を高く評価」し世界への日本紹介を一段と高めた。浮世絵や楽器など日本美術工芸品の収集と展覧による日本紹介、日本政府の帝国財務及工業通信員を委託され(1902年)日本政府のいわばコンサルタントとしての支援、などという活動もまた注目される。
これらの功労に対し、日本政府は勲二等を授与し、東京帝国大学は名誉教師の称号を贈っている。