じじぃの「人の死にざま_1209_山崎・闇斎」

山崎闇斎 - あのひと検索 SPYSEE
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湯武革命論 山崎闇斎 崎門学 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=7GK19ytBXkU
孔子孟子が大将となって、日本に攻めてきたら… 2010年6月24日 日経ビジネスオンライン
山崎闇斎が、大勢の弟子たちにこう問いかけた。
「今まさに中国が、孔子を大将とし、孟子を副将として、数万騎をひきいて、わが日本に攻めてきたとしよう。このとき、わたしの門下で孔孟の道を学んでいる諸君は、一体どうするのかね」
弟子はみな答えることができず、こう言った、「わたしたちにはどうすればいいか、わかりません。どうかご意見をお聞かせください」
不幸にも、このような事態にあったなら、わが門下は甲冑をかぶり、手に剣をとり、これと戦って孔子孟子を捕虜にし、わが国への恩を返すのだ。つまり、これこそ孔孟の道なのだ》『先哲叢談
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100616/214989/
山崎闇斎 ウィキペディアWikipedia)より
山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者朱子学者・神道家・思想家。諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。
【生涯】
元和4年(1619年)、京都で浪人の子として誕生。
寛文5年(1665年)、会津藩主・保科正之の賓師に迎えられ、藩政への助言者として活躍する。領内の寺院・神社の整理をおこない、神仏習合を排除した。また吉川惟足の影響で、神道研究にも本格的に取り組むようになり、従来の神道儒学を統合して、垂加神道を開いた。
闇斎の提唱した朱子学を、崎門(きもん)学または闇斎学という。その思想の独自性は、湯武放伐を否定した点にあり、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。門人には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎・植田艮背・遊佐木斎・谷秦山・正親町公通出雲路信直らがおり、闇齋学の系統を「崎門学派」という。

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文藝春秋 2012年12月号
大特集 日本人と中国人「宿命の対決」 司馬遼太郎陳舜臣 日中「文明の相剋」 前文 「預言的な響き」をもって現代に甦る 山内昌之 (一部抜粋しています)
日本人は、他の国民と違って、中国について現実を素直に見るよりも、或る部分を理想化することで、歴史をありのままに見る道筋を拒否するところがある。このウエットな特徴は、江戸時代の儒学者から現在の中国専門家にいたる知識人に見られるばかりでない。歴代の政党政治家を含めた為政者のなかにも、日本の歴史や両国の関係をしばしば歪めて考える者がいる。
中国文明を尊敬し友好を求める態度と、中国の政治的な威に委縮し唯々諾々と意を迎える卑屈さとは別物である。日本の政治家と外交官にはこの違いが判らない人も少なくない。これは、『文藝春秋』の1970年11月号の陳舜臣との対談において、司馬遼太郎が表現した「日本人の漢文的世界」の感覚と無関係ではないだろう。
司馬遼太郎は、漢文的世界の中国と現実の中国は別物だと述べている。これは、自分の頭に存在する漢詩や漢文でイメージされる世界が、生きた政治や外交の舞台である現実の中国と同一でないということだ。脳裏にある過去の幻影をそのまま現実の舞台に投影すれば、少なからぬ判断ミスや誤解が生じるのは当然だろう。学者の理屈だけなら国を滅ぼすことはないが、政治家が主観的な感情移入や共感に尾こだわるなら国益を毀損しかねない。
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ところで司馬は、中国人と日本人との違いは何かという問いを発した。すると、陳は「中国人は現実的で、フィクションを認めない」と間髪を入れずに答えている。日本では、もともと古いものも新しいものも外から来た事物だった点が中国と違うというのだ。
確かに、外来の思想が中国起源ならば、そこに考え方の普遍性とそれが生まれた中国の特殊性の双方が含まれている。当然、独自の民族と国家である日本は、ひとまず中国で生まれた普遍的な「道」と日本固有の社会感覚との葛藤に悩むことになる。司馬は、自前のものは神道シャーマニズムだけだから、明治の近代化など各種の試練に際して、中国から来た文化や事物を捨てるのも簡単だったと語る。しかし、実際の思想の受容と廃棄との関係は2人が言うほど簡単なものではない。
それを考える1つの手がかりは、すでに紹介した儒学者にして神道家の山崎闇斎の思想だろう。
闇斎は弟子たちに、孔子孟子が日本へ攻めて来たならば、孔孟を捕虜にするのが孔孟の道だと説いたといわれる。中国で生まれた儒学の道徳観で大事なのは、そこにはらまれる普遍主義であり、説いた人物たちの民族籍や国籍ではないというのだろう。その弟子の浅見絅斎(けいさい)が述べた「聖賢の道を尊むべし」とは、日本で平和に人びとが生活しているときに、異国(外国)の贔屓をするあまり国の利益を忘れるのは大きな「異端」であり、普遍的な教えの「道」に反するという主張につながる。もし異国の君主の命令で孔子孟子が日本に攻めてきたなら、まず進んで2人に鉄砲を向けて孔子朱子を討ち取るのが日本人としての大義というものだという。書物だけを読んで異国人(中国人)になった気分となり、その真似をするのは正しい「道」を知らないからだ。この点では、絅斎の論的となった同門の佐藤直方も、国際関係における日本の自主独立と安全保障を当然の理と考えていた。まず起こりえないと留保しながらも、もし孔子孟子が軍隊を率いて他国に侵攻すれば、それは孔孟が自ら説いた「道」に背馳する行動をとるのだから、「道」に従ってこれを撃破すればよいというのだ。
孔子孟子が説いた教えを守ることこそ孔孟の道というものであり、それを孔孟自ら踏みにじるのは”中華思想”の排外主義的な現れだから抵抗しても構わないという理屈は、ずいぶんと醒めた世界観というほかない。このあたりが陳舜臣のいう、自分の生き方を変えない中国人、変える日本人という個性の違いなのかもしれない。

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