じじぃの「中国の辛亥革命・もし日本に渋沢栄一がいなかったら?夕刊フジ」

渋沢栄一①】~新1万円札の顔!近代日本経済の父の数奇な人生とは~【偉人伝】

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夕刊フジ』 2020年6月11日発行

「お金」の日本史 もし日本に渋沢がいなかったら? 【執筆者】井沢元彦 より

渋沢栄一の著書『論語と算盤(そろばん)』を悪意をもって評するなら、もともと「水と油」である「論語儒教)と算盤(商売)」に深い関連性があると「こじつけ」たものであると、という言い方もできるだろう。本来の儒教では孔子に次ぐ聖人である孟子の言葉に「恒産無くして恒心無し」というのがある。「恒」という字は訓読みでは「つね」に、と読むガ、安定した職業や財産をもたない人間は(生活に追われるから)しっかりした道徳心を持てない、という意味である。
渋沢のやり方はこの言葉を「だからこそ、われわれは定期収入を得られる商売をおろそかにしてはいけない、孟子はそう言っている」という言い方である。そのように拡大解釈できないとは言えないが、実際に孟子はそこまでは言っていない。
朱子学士農工商にやかましいが、本来の儒教も士つまり学問で儒教を身に付けた人間は、ほかの農工商つまり民衆より優れているという感覚があった。逆に言えば農工商には道徳など無いということで、日本でも士つまり武士はやはり武士道という道徳を身につけており、その点で農工商とは違うという感覚があった。
だからこそ渋沢は商人になることを同僚に強く反対されたのである。だが、それ以後渋沢は「孔子の真意はそうではない」という言い方で倫理を説き日本の資本主義を構築していった。ここは本人の言葉を引用しよう。
「武士道は、ただに儒者とか武士とか言う側の人々においてのみ行なわれるものではなく、文明国における商工業者の、よりてもって立つべき道にも、ここに存在することと考える。かの泰西の商工業者が、互いに個人間の約束を尊重し、たとえ、その間に損益はあるとしても一度約束した以上は必ずこれを履行して前約に背反せぬということは、徳義心の強固なる正義廉直の観念の発動に外ならぬのである」(『論語と算盤』渋沢栄一著 角川ソフィア文庫 一部表記を改めた)
泰西(ヨーロッパ)の商工業者は必ず契約を守るが、日本の商人は必ずしもそうではないということなのである。契約を守ることは近代資本主義社会の最低成立条件でもある。渋沢はまさに「そこから」始めなければならなかった。
「商売は悪」の社会では商人はギャングと同じで、約束を守らなくても暴利をむさぼっていい。非難はされるにしても、道徳に従えとは誰も言わない。道徳を守らないのが悪人だからだ。しかし渋沢は儒教にことよせて近代資本主義の道徳を確立した。企業がその利益を社会に還元すべきだという考え方も、一部の良心的な商人にはあったが、商工業界全体の論理ではなかった。全体をそのように変えたのはほかならぬ渋沢だ。

では渋沢がいなかったら、日本はどうなっていたか?

格好の例がある。
「渋沢なき資本主義」で一度は近代国家をつくった中国だ。孫文清朝を倒した辛亥革命(1910年)である。

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どうでもいい、じじぃの日記。
「歴史に『もしも』はない」というのはよく言われる言葉です。
孫文は「中国革命の父」と呼ばれています。
しかし、革命後の中国は孫文の描いたのとは異質の国家へと向かってしまいます。
中国に渋沢が存在せず、日本に渋沢が存在していたのが日本の奇跡なのだそうです。