じじぃの「歴史・思想_640_逆説の日本史・中華民国の誕生・渋澤栄一」

【10分でわかる】渋沢栄一ってどんな人? ~実業界の父と呼ばれた男の人生~

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=l0WF3dqlTSA

新紙幣は1万円札は渋沢栄一 (2024年から)


筑摩書房 渋沢栄一 現代語訳 論語と算盤(そろばん) 守屋淳

●「論語と算盤」とは
論語」とは道徳、「算盤」とは利益を追求する経済活動のこと。
論語と算盤』は、渋沢栄一の「利潤と道徳を調和させる」という経営哲学のエッセンスが詰まった一冊です。明治期に資本主義の本質を見抜き、約480社もの会社設立に関わった彼の言葉は、ビジネスに限らず、未来を生きる知恵に満ちています。
https://www.chikumashobo.co.jp/special/rongotosoroban/

『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より

なぜ中国では辛亥「革命」となり、日本では明治「維新」だったのか

言葉だけで言えば、中国は皇帝制の廃止というまさに社会の根本的変革があったこら「革命」であり、それに対して日本は天皇制の復活&リニューアルという形を取ったから「維新」なのだが、なぜ同じ朱子学社会がそのような違う方向を産んだかと言えば、日本は天皇を核にして全体を改革するという形を取ったからだ。日本には中国には無い天皇という「アドバンテージ」があった、と言っていいだろう。もう何度も指摘したことだが、昭和ヒトケタあたりの天皇絶対主義教育の被害者たちは、無理も無いのだが心理的天皇の「効用」を一切排除しようとするからこの原理がわからないのである。
徳川家康は、本能寺の変のような「恩知らずの反乱」が二度と起こらないように、それまで一般的では無かった朱子学を武士の基本教養にした。ただし、科挙の採用は見送った。将軍をピラミッドの頂点とした身分社会の秩序が崩れるからである。しかし、それがゆえに清国や朝鮮国は日本が二流の国家だと考えた。朱子学を身につけていればどんな階級の出身でも「士」になれる社会では無いからだ。しかし、科挙を採用しなかったおかげで日本では勝海舟坂本龍馬が幕末維新の動乱で日本を動かすことができた。そして、日本の伝統的宗教であった神道朱子学の融合が行なわれ、天皇は唯一絶対の存在であり、それがゆえにその下においてはすべての国民が平等であるという民主主義の基本条件が整備された。これは浅見絅斎(あさみけいさい)、竹内式部(たけのうちちきぶ)といった儒学者神道家が道を開き、最終的に吉田松陰によって完成された。

光緒帝や康有為は「粗法を変えるなどと言い出す極悪人」

もっとも、弊害もあった。朱子学ではとくに「なにも生産しない」商業を賎業と考えるため、貿易立国つまり外貨を稼ぐことも「悪」だと日本人の多くが考えるようになった。これでは健全な資本主義など構築できない。その部分を改善して「日本資本主義の父」となったのが渋澤栄一である。

渋澤は「商売は悪だと言ったのは朱子であって、儒教の開祖である孔子はそんなことは言っていない」と主張し、『論語と算盤(そろばん)』という著書で日本人を啓蒙した。このおかげで日本はすんなりと近代資本主義の道に入ることができた。すでに述べたように、中国には吉田松陰渋澤栄一もいなかった。ということは、皇帝制を打倒しても民族主義はただちに成立するわけでは無い。そもそも儒教にもそれをヒステリックにした朱子学にも、万民平等という考え方は無いからだ。もちろん健全な資本主義も発展しようがない。これも前に述べたように、「商人=悪」と考える社会では商人(=資本家)は「どうせオレたちは悪人だ」などと開き直り、倫理を度外視して稼ぎまくる金の亡者になる。当然、渋澤栄一のようにチャリティーに金を使ったり、現在も多くの企業によって行なわれているメセナ活動や奨学金の提供なども一切行わない。つまり「資本家=悪」という社会が見事に成立してしまい、共産主義革命が成功する土壌が整備されてしまったわけである。

そこで多くの人が疑問を抱くかもしれない。確かに、神道という「天皇教」が存在しなかった中国においては朱子学を時代に合うように改変するのは困難だったかもしれないが、試みた人間はいないのか、という疑問である。じつは存在した。その人物は、日本史における吉田松陰渋澤栄一の役割を1人で果たそうとした。その人物の名前、たぶんあなたはご存知である。
康有為だ。あの光緒帝の支持のもとに行われ失敗に終わった「百日維新」は「変法自強運動」とも呼ばれた国家改革だったが、そのリーダーに彼が抜擢されたのも、そもそも日本のやり方を見習って朱子学社会を変えようとその方向性を示していたからなのである。康有為は、朱子学陽明学と同じ儒教の一派である公羊(くよう)学の熱心な信奉者であった。ここで当然、公羊学とはどんな学問なのかを説明しなければいけないのだが、それはまさに中国儒教史に深入りしすぎることになる。私が中国史を取り上げているのは、それを知ることによって日本史の理解が深まるからである。だが、この「深入り」はあまり日本史の理解とは関係無いので、ごく簡単に公羊学の特徴を述べよう。これも朱子学と比較するとわかりやすいのだが、朱子学は「孝」とそれに基づく先祖崇拝を非常に厳格に規定したため、先祖の決めたルールは「祖法」と呼ばれ変革できなくなった。つまり、「火縄銃を西洋式ライフルに代える」ことすら朱子学社会ではきわめて困難になってしまった。なぜそう考えるかと言えば、「先祖の定めたルールを変更することはそれが先祖の過ちだと指摘することになり、『子の分際で親を批判することになる』から孝を尽くすべき子孫の道に反する」という考え方からくる。ちなみに、「商売は悪」と同じように朱子学は常にヒストリックで独断的にそういう考え方をするのだが、孔子はそこまで極端なことは言っていない。だからこそ渋澤栄一は、「論語を読んでごらん。孔子は商売が悪だなんて一言も言ってないよ」という説得の仕方で日本人の商売に対する偏見を取り除くことができた。
じつは康有為のやり方もこれと同じで、「朱子学では粗法は絶対守れとうるさいけど、孔子はそんなことを言ってないよ」という形で、正確に言えばそれが孔子の真意だという解釈で、粗法を変えることもそれが国家を強くすることになるなら問題は無い、という論陣を張ったのである。孔子の主張についてヒステリックでは無くフレキシブルな解釈をする、それが公羊学の最大の特徴だ。だからこそ「変法自強」運動なのである。

こうした知識があれば、「祖法を変えることなど一切許さん。それは最大の悪徳だ」と考える西太后のような保守派が、康有為や光緒帝をどのように見たかおわかりだろう。それは松平定信田沼意次をどう見た蚊と同じことなのだが、要するに「極悪人」ということだ。それゆえ、なんとか日本亡命に成功した康有為以外の変法派は死刑に処され、光緒帝は幽閉されてしまった。ここで注意しなければいけないのは、清国人が最終的に忠義を尽くすべき主君は光緒帝であって西太后では無い。それなのになぜ西太后専制という「不忠状態」が続いたかということだ。一般的には西太后の政治力がそれだけ凄かったのだと考えられているが、それは光緒帝を幽閉から解放し、「悪人西太后を討つ」という「忠臣」がまったく出なかったことの説明にはならない。
おわかりだろう。清の宮廷に仕えている者は高級官僚であればあるほど科挙の合格者であり、言葉を換えて言えば朱子学の権化である。だからこそ、「粗法を変えるなどと言い出した極悪人」の皇帝を救い出そうなどという気にはなれなかったのである。