じじぃの「科学・芸術_102_朱子学(儒教)」

孔子 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=tT-nTj88U-o
孔子とその弟子

中国「孔子学院」世界各地に495校、中国語学習者は1億人超―中国メディア 2016年6月20日 レコードチャイナ
2016年6月18日、中国新聞社によると、中国が海外の大学などの教育機関と提携し、中国語や文化教育を広めるため世界各地で設置している「孔子学院」の数が495校に上ることが、18日発表された報告書「文化建設白書」の「中国文化発展報告(2015-2016)」から明らかになった。
http://www.recordchina.co.jp/a142063.html
靖康の変 ウィキペディアWikipedia) より
靖康の変は、1126年、宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)を支配層に戴く金に敗れて、中国史上において政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。
金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて北方へ連行した(この出来事を「二帝北行」という)。彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、異郷の地に骨を埋めることとなったのである。また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦となった。

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『逆説の世界史 1 古代エジプト中華帝国の興廃』 井沢元彦/著 小学館 2014年発行
中国文明の力量と停滞 (一部抜粋しています)
中国と同じ東アジアにある韓国、北朝鮮あるいは中華民国(台湾)といった国家について、中国の朱子学儒教の影響を語ってきた。
では、もう1つの東アジアの国家日本についても朱子学の影響は存在したのか、を語らねばならない。
まず簡単に結論を言ってしまえば、「強い影響は受けたが、それを改変して独自の文明圏を築いた」というところだろうか。例えば、これまでの分析によって、読者は共産主義国家である中国および北朝鮮、そして資本主義国家である韓国および台湾のどちらも、現在でもファミリー汚職が盛んに行われれおり、その共通性は朱子学に原因があることを理解していただいたと思う。
しかし、現在の日本にはそうした問題はまったくないと言っていいだろう。例えば、この稿を書いている時点の日本国総理大臣は安倍晋三氏だが、安倍氏が政権の座にあるからといって、韓国のように親族が安倍氏に寄生して本人を汚職まみれにしてしまうとか、あるいは中国のように安倍氏の母が息子の権力によって莫大な金を不正蓄財するということはない。
もちろん、どんな国にも例外というものはあり、汚職というものが根絶されているわけではないが、少なくとも「東アジア朱子学型のファミリー汚職」はない。日本はこの問題について朱子学を克服していると言えるわけだ。
克服という言葉を使ったのは、日本にも朱子学が伝わり、その影響、私に言わせれば「毒」に汚染されたことはあるからだ。だが、現在もその汚染が続いているとすれば、ファミリー汚職は根絶できないはずである。つまり、この日本のこの現状は、まさに朱子学の毒を克服した状態なのである。
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朱子学(Cheng-Zhu school)は哲学だと中国人は主張する。つまり宗教ではないという意味だ。しかし、実際は極めて強烈な宗教であることを、これまでの記述で読者は納得していただけたと思う。
まず、あらゆる道徳の中で親に対する忠節である「孝」を極端に重んじること。そして、人間を朱子学を身につけているかいないかで厳しく峻別する身分制度を生むこと。また、王者の条件を「徳」の有無によって決定するから王朝交代を可能とする副作用もある。
「孝」を重んじるという特質は、朱子学以前の儒教から重要視されていたが、儒教の祖である孔子(BC552?〜479年)は身分制度について朱子(または朱熹 1130〜1200年)よりはるかに寛容であった。人間には優れた人間と劣った人間がいることは認めていたが、それを身分制度で固定しようという発想は孔子にはなかった。
もう1つ、孔子になく朱子学以後の儒教に明確にあるのが、独善性と排他性だ。これが中国こそ世界一で他に国は無いという、古来から存在した独善的な中華思想を、より強める結果になった。なぜそうなったかは、既に詳しく述べたところだが、やはり靖康(せいこう)の変(1126年)の影響が極めて大きいと思う。今の中国人はこの「変」のことを意識していない人がほとんどだ。知識人でもよほど歴史に詳しい人でない限り、この「変」のことは忘れている。
しかし、私のように中国全体を外から見た人間が、かつて人類文明の最先端を進み、中華思想はあったものの周辺の民族には寛容であった中国人が、なぜ進取の気性を失い他民族に対して極めて排他的な考えを持つようになったのか、その淵源を辿っていくと、この靖康に突き当たるのである。
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では、なぜ彼らは「儒教は宗教ではなく、儒学という哲学だ」と言いたがるのか?
儒教の開祖孔子は「怪力乱神を語らず」と宣言した。つまり私の考えでは神霊的存在とか超自然現象とかは扱わない、ということだ。中国人に言わせれば、開始が「怪力乱神を語らず」と宣言しているものがなぜ宗教か、哲学ではないか、ということになる。
士農工商の身分区別についても、既に述べたような合理的な考えによるもので、神秘的要素は一切ない。その証拠に、たとえ商人の子に生まれても、本人が努力して勉学すれば、科挙に合格し官僚つまり「士」になることもあり得る。本人の努力の結果を試験という平等で客観的な物差しで測るわけだから、これもまったく合理的で神秘的な要素など一切ない、だから孔子の教えも、それを発展させた朱子の教えも、宗教ではなく儒学という哲学だ、ということのなるわけである。
そして、こういう考え方からすれば、むしろ法の下の平等だとか、一人一票などという考え方は馬鹿げているということにもなる。人間には高潔な哲学者もいれば、人を殺す犯罪者もいる。有能な官僚もいれば、計算すらまともに出来ない人間もいる。だから平等などという考え方はおかしい。むしろ合理的な基準で高潔で有能な人間を選び、その人間集団が愚かな民衆を統治していけば良いではないか、ということにもなるわけだ。
これは古代から近世まで、中国という1つの帝国を支える基本思想であった。
そういう考え方が土台にあったからこそ、近代になって中国は、少数の選ばれたエリートが多くの民衆を支配指導するという共産党独裁制にはたやすく移行することが出来たが、すべての人間は平等だと考える民主主義は未だに根付かないということにもなった。
お気づきのように、これが現代中国の抱える最大の問題点である。