宋学/朱子学
世界史の窓
宋代(北宋から南宋にかけて)に形成された、新しい儒学・儒教を宋学という。宋学を大成したのが朱子(朱熹)であったので一般に朱子学ともいう。
宋学の成立は、中国思想の中でも革新的なものであり、仏教・道教と並ぶ体系的な世界観を確立したことを意味し、朝鮮および日本を含む東アジア圏に影響を与え、儒教文化圏を形成することとなる。その革新性とは、古文の解釈を行う訓詁学が主流であった後漢の鄭玄以来の儒教(儒学)を、哲学あるいは実践倫理にまで高めたことにある。その点から、宋以前の儒学を訓詁学、宋以降の儒学を、その主張するところから性理学ともいう。また、宋学(朱子学)を支えたのが、経済的余裕を勉学に充て、科挙に合格して官僚となることのできた新興地主階級である士大夫であった。
『中国の歴史を知るための60章』
並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行
宋王朝 唐宋の変革 より
アヘン戦争以前の、いわゆる前近代中国の歴史において、唐から宋に移行する時期に大きな歴史的変化があったことは、今日では中国研究者によく知られている。このことを現在に至るまで影響力ある形で最初に表明したのは、内藤湖南(1866~1934年)であり、その歴史的変化を中世(中古)から近世への移行と捉え、変化の具体的様相を政治・経済・文化などの多方面から指摘した。こうした内藤湖南の考えは、彼が教鞭を執った京都大学の、宮崎市定らの卒業生を中心に受け継がれていったが、第2次世界大戦後、戦前の中国史研究に対する深刻な反省に立って提唱された、いわゆる「停滞論克服」という課題が提示されると、日本における広範囲の中国史研究者の脚光を浴びるようになった。前田直典は、この課題を意識的に掲げて、内藤湖南以来の京都学派の時代区分を批判的に検討し、その結果、唐から宋への変化は古代から中世への移行だと結論づけたのである。
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それでは、唐と宋とのあいだにおいて、どのような歴史的変化がみられたのだろうか。内藤湖南は、彼の唐宋変革論を集約した論文で、政治的には貴族政治には貴族政治から君主独裁政治に、経済的には実物経済から貨幣経済に、学術文芸においては儒教の経典の学問(「経学」)が注疏(ちゅうそ)重視から経文それ自体に自己の見解で新解釈を施す方向へ変化していった点などを指摘しているが、紙幅の大半は政治的変化に費やされている。ここに貴族政治とは、六朝(りくちょう)時代を中心として盛行したもので、日本やヨーロッパのそれとは異なって、ある家柄が自然に地方の名望家に発展した結果生まれたものだと述べた。これは、1960年代以降、在地において名望家的在り方を志向した豪族のなかから貴族性が生み出されたという、谷川道雄らの、いわゆる共同体論を提唱する端緒となる考えを示している。
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貴族性の没落後、宋代の君主独裁政治を官僚として政治の内実を担ったのは、おもに進行地主階層を基盤として科挙を通じて官界に進出した士大夫だといわれる。かれら新興士大夫は、新興階層であるがゆえに、唐代までに積み重ねられてきた既成の価値ではなく、自分の内面的要求と合った形での自己存在や自己と国家との関係で価値づける思想的営みを11世紀半ばの慶暦(けいれき)の新政のころから本格的に開始し、それはやがて朱子学という形でひとつの体系化がなされた。また、同じ動機に立って、貴族のように族的背景をもたない士大夫層が自己の達成した栄達や成果を子孫にまで継承させようとして、新たな家族や宗族的結合を求めた。こうした一連の政治・社会・文化などに対する活動は、宋代につづく伝統的中国社会に大きな影響を与えた。いわば、宋代は伝統中国後期のさまざまな意味での「故郷」ともいうべき時代なのであった。