じじぃの「科学・芸術_971_中国・明末の社会と陽明学」

高校倫理23 陽明学 わかりやすく

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https://www.youtube.com/watch?v=0C8q-kcutaI

陽明学

世界史の窓
明代の16世紀初め1508年に、王陽明が始めた儒学儒教の一学派。
当時官学とされていた宋学朱子学)では「格物致知」=ものに格(いた)ることによって知を完成する、つまり自己の心によってではなく、自己の外にある事物それ自体を探求することによって真理を得られるという考え(「性即理」)であったが、王陽明は「聖人の道はわが心のうちに完全にそなわっている。理を(外部の)事物に求めていたきたのは間違っている」と考え、「心即理」と説いた。彼の考えでは学問の目的は、「致良知」=各人に生まれながらにそなわっている心(良知)を実現することにあるという。良知とは、知(認識)と行(実戦)を統一したものでなければならず(「知行合一」)、それは人にそなわった直感的道徳力である、と説く。
このように陽明学朱子学を否定するものであり、そのあまりに主観主義的な思想は体制批判につながるおそれがであったのであまり普及せず、明末に李贄李卓吾)がいる程度であり、次の清代には、客観的な実証を重んじる考証学が隆盛する。
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-091.html

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

明末の社会と陽明学 より

陽明学とは明中期の王守仁(おうしゅじん、1472~1529年)の号をとってよばれるようになった儒学の一思潮で、彼の没後、高弟の王畿(おうき)や王艮(おうこん)らによって熱心に協議されて、明末の思想界に広まりとくに江南地方では優勢な地位を占めるにいたった。
王守仁は浙江省余姚県に生まれ、父親が状元で南京吏部尚書を務めた大官僚であったという名門出身で、18歳になって朱子学(しゅしがく)が思想の中核となった。朱子学の格物説に従って、彼はひとつひとつの事物についてその理を究めようとしたが、結局事の理と自分の心がつねにふたつに分かれたまま合わさらないという思いにいたった。その後、文学や道教、仏教などにつぎつぎと傾倒した。1499年に進士に合格し官僚になったが、1506年に正徳帝のもとで権勢を振るっていた宦官 劉瑾に逆らったため、1508年に辺疆の貴州龍場駅の駅丞に左遷されたが、これが彼の思想の転換点となった。ミヤオ族地帯で従者はつぎつぎと病気に倒れ、みずから炊事をして従者に食事をさせるという苦闘のなかで彼はある日「聖人の道は我が性のなかに自ずと備わっている。理を外面的な事物に求めるのは誤りだ」ということをとつぜん大悟した。劉瑾の失脚後、要職に復帰すると、江西・福建の流賊を平定するなど、官僚として活躍した。
南宋に成立した朱子学は明代に正統的学問とされ、科挙試験にも採用されていた。陽明学はこの朱子学の展開のなかから形成された側面があり、中国儒学史ででは「宋明理学」とも総称される。理学では人間万物の正しいあり方(「理」)は人間が誰でも本来備えているものだと考え、理を窮めることを学問の目的とした。朱子学では、広い学問的知識と厳しい修養を通じてはじめて「理」に到達できると考えられた。
これに対し、王守仁は心における理とは人の先天的道徳的本性で、人の心の本源からみずみずしく流出するものであると考え(「心即理」)、それは先天的本源的であることによって、人の作意や分別を破るものとした。
朱子学では知先行後(ちせんこうこう)説が主張されたのに対して、王守仁は「人が孝を知り悌を知るという以上、必ずその人がすでにそれを実行しているのでなければ、知っているとはいえない。孝悌についてあれこれ議論したからといって、それで孝悌を知っているとはいえない」(『伝習録』上)と述べ、知行合一(ちこうごういつ)を主張した。すなわち陽明学では、本体である心から見るとき知も行もその心の働きとしてはもともと同じレベルのものと考えられた。
王守仁はさらに当らな聖人観を提唱した。純金は量の多少にかかわらず質としての純金の価値に変わりがないように、人の道徳性は道徳として純質でありさえすれば、その純質性において誰でもが聖人足りうるとした(『伝習録』上)。ここから「満街の人すべて是れ聖人」という聖人観が主張された。
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高弟の王畿(おうき)に傾倒した李贄(りし、号は卓吾)は「聖人も人であるかぎり、中空に高く飛んで人間世間を棄てたり、穀粒を絶ち草皮を着て荒野に逃れたりすることはできない。だから、聖人といえども勢利の心がないわけにはいかず、(大泥棒の)盗跖(とうせき)であっても仁義の心がないわけにはいかない」(『道古録』上)と述べ聖人を相対化し、また「衣を穿(き)て飯を吃(くら)う、これこそが人倫物理」(『焚書』巻一)と言って、人の自然状態に理を見て、欲望や私を肯定的に容認した。さらに『西廂記(せいしょうき)』や『水滸伝(すいこでん)』を童心(人間の真情)からでた「古今の至文」と賞賛する一方で『論語』や『孟子』を貶(おとし)めた。このような彼の評論は思想界や官界に大きな衝撃を与えた。明末の混乱のなか、秩序の再建を目指す政治家にとって、こうした急進化が危険思想とみなされ、1602年、李贄は投獄されたのち、獄中で自殺した。
このように明末に新しい思想が広がった背景には出版文化の形成がある。明代後期、印刷技術が向上し誤字の印刷が減少し、本の原料となる紙も黄麻紙(麻を原料とする)・綿紙(クワを原料とする)・竹紙(タケノコを原料とする)など種類が増え、価格も低廉で出版にかかる費用が低下した。さらに明末の都市の経済発展にともない出版した図書を販売して利益を得る出版業が成立し、長編の白話小説、大部な実用書などが出版された。明末の知識人もみずからの著作を出版することによって知識人を主体とする読者にその思想を伝えることができたのである。