じじぃの「人の死にざま_1746_津田・左右吉(歴史学者)」


津田左右吉 ウィキペディアWikipedia)より
津田 左右吉(つだ そうきち、1873年明治6年)10月3日 - 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の日本史学者である。
古事記』や『日本書紀』、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして文献批判を行った。その方法は津田の創始ではなく、明治以降の近代実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程についてひとつの相当程度合理的な説明を行った側面が大きい。明治以後の近代史学では、歴史の再構成は古文書、日記等の同時代史料によるべきであって、たとえば『平家物語』や『太平記』を史料批判なくして同時代史料に優先して歴史の再構成に使用してはならないという原則が、広く受け入れられていた。
他、中国思想等についての実証研究でも影響を与えたが、儒教人間性を無視しているとして、中国思想は「特殊な否定的なもの」であるとして、中国の思想には批判的であった。又、近代西洋文化に対しては肯定的な近代主義者でもあった。「明治人に特有な脱亜論的ナショナリズム」を体現していたとも評価される。

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『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』 黄文雄 徳間書店 2012年発行
日本人は中国から影響を受けたか (一部抜粋しています)
中国人は、中国は日本にさまざまな文化を教えてやったと考え、また日本人自身も、日本は歴史的に中国から多くを学んだと思っている。
遣隋・遣唐使以後、日本は随・唐から多くの文化を学び、隋・唐文明を受容したというのは史実である。
トインビーは、日本文明はベトナムや朝鮮と同じく、隋や唐の「姉妹文明」と分類している。だが、日本の開国維新以後、日本は中華文明の「姉妹」ではなく、「周辺文明」あるいは「衛星文明」だと格下げし、東洋文明から西洋文明へ「改宗」した背教者だとしたが、それは間違いだ。
日本の共通する文化要素として、仏教、儒教、漢字、律令制などがよく取り上げられるが、日中の文化・文明史から見て、それは正確にいえば、ただ「あっただけ」であって、史上ずっと共有してきたものではない。
たとえば「律令制」については、それは遠い昔々の一時的な制度だった。中国には、隋律・唐律から明律・清律まで、中華帝国を支えてきた律令があったが、日本は鎌倉時代以降、幕臣体制が主流で、中国のような中央集権国家ではない。
中華帝国は「1人のみ自由、万人は奴隷」の皇帝制度であるが、日本は権力と権威を分有する万世一系の「天皇」制度である。
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日本の縄文、弥生時代とほぼ同時代に、中国でも日本の原始神道とほぼ近いアニミズムがあった。殷の時代の土俗信仰がもっとも代表的だ。そして、中国の天下大乱時代に、民衆の魂を救済する宗教として仏教がインドから西域を経由して伝来した後、殷以来の土俗的なアニミズムが仏教の教義を取り入れ、道教となって仏教に抵抗した。さらに、仏教の哲学的用語で儒教の経典を再注釈し、集大成したのが朱子学である。
儒教思想が本格的に日本に大きな影響力をもたらしたといえるのは、江戸時代の朱子学である。朱子学は江戸時代に官学として鼓吹(こすい)されたが、それでも、それ以外の仏教、神道国学蘭学、そして陽明学に勝てなかったのは、日本的風土(自然)に根を下ろせなかったからだ。日本的風土には共生と習合の原始神道があり、朱子学のような排他性の強い学説は広く受け入れられることはなかったのだ。朱子学が仏教を排斥する一方、日本の原始神道は、神仏習合によって日本の民族宗教となった。
隋・唐以後の儒学や新儒学が、実際には日本に土着しなかったことは、日本学者の津田左右吉氏がその著書『支那思想と日本』(岩波新書)の中で、克明に指摘している。
「要するに、儒教が日本化した事実は無く、儒教とはどこまでも儒教であり、支那思想であり、日本人の生活には入り込まなかったものである。だから、日本人と支那人とが儒教によって共通の教養を受けているとか、共通の思想を作り出しているとか考えるのは、まったくの迷妄である」