じじぃの「死海文書の謎・もう一人のイエス!キリスト教の本」

やり過ぎ都市伝説死海文書について 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=CGrr2T7iIWo
死海文書 イザヤ書の写本の複製

死海文書の謎 ナショナルジオグラフィック日本版公式サイト
最古の聖書関連書籍「死海文書」。書いたのは誰か?
「銅の巻物」は財宝の在りかを示しているのか?最新の調査から、死海文書の謎を解き明かします。
http://nationalgeographic.jp/nng/shop/detail.php?id=330
キリスト教創始者パウロということですが、それは何処(どの書)に書かれてあるんでしょうか。 2015/8/31 Yahoo!知恵袋
回答
パウロは生前のイエスとは面識がありません。
加えて、新約聖書の中で作者が明確に解っているのはパウロ書簡だけです。
福音書の作者は旧約に精通してた可能性が高いのですから、そのイメージにに沿って、イエス像を創作したと読むのが健全です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12149742087
エッセネ派 ウィキペディアWikipedia) より
エッセネ派は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教の一グループの呼称。現代では複数の関連のある集団がまとめてエッセネ派という名で言及されていたと考えられている。呼称の語源は不詳。ファリサイ派から発生したと考えられるが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で、民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している。
新約聖書には、ファリサイ派サドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある。

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『イエスのミステリ――死海文書で謎を解く』 バーバラ・スィーリング/著、高尾利数/訳 NHK出版 1993年発行
失敗した死 より
エスはもう死んだものと思われた。彼は他の2人と同じ洞窟に入れられるはずであった。それが許された歩行距離内にあったからである。午後6時前に彼をそこへ運ぶことができた。一番近い親戚であったヤコブに、兄を埋葬するという役割が与えられた。彼はピラト(ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督)と語ったが、ピラトは、イエスがすでに死んでしまったということに驚きを示した――十字架刑というものが普通もっと長く続くものだということを知っていたからである。
シモン・マグス(クムランのゼロテ的運動の領袖、ラザロ)とユダ(ゼロテ党員、クムランの書記)は十字架から下ろされ、脚を折られた。彼らは遊歩道の南の端まで運ばれ、さらに曲がりくねった道を下って洞窟に運ばれた。そして中の東側に置かれた。
エスに愛された弟子のヨハネ・マルコは、イエスの十字架の近くに立っていた。テラペウタイと関係があったすべての者と同様、彼は医学的知識を持っていた。死んでいるかどうか試すために、イエスの脇腹が槍で刺されたとき、血が流れ出たのを見た。そしてこれは、イエスがまだ生きていることをほぼ確実に意味することを知っていた。ヨハネ・マルコは、この情報をヤコブとテウダ(テラペウタイの領袖)に伝えた。テウダはいろいろな理由で、イエスに大いに感謝してしかるべきであった。彼はヤコブに手を貸してイエスを洞窟まで運び入れた。そして意識を失った男のそばに、100ポンドのミルラ(没薬)とアロエ――それは大変な量であった――を置いてきた。

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キリスト教の本 上 救世主イエスと聖書の謎を解』 増田秀光/編 学習研究社 1996年発行
死海文書が新たに提示するイエス より
エスの伝記は、すでに触れたように、史実として再構成することはできない。
が、最近オーストラリアのシドニー大学のバーバラ・スィーリング氏が『イエスのミステリー』(高尾利数訳・NHK出版)という本を書いて、1945年に発見された『死海文書』で用いられているペシュルという解釈方法を福音書に適用すれば、イエスに関する実際の歴史が詳しく再現できると主張している。
彼女によれば、イエスの誕生も、もろもろの奇跡も、すべて『死海文書』を残したユダヤ教エッセネ派の諸実態から合理的に説明できるのであるが、彼女の主張が認められるためには、『死海文書』と新約福音書それぞれの成立年代、『死海文書』のなかの主要人物の特定などの複雑な諸問題に関して、共通の確認がなされなければならない。
さもなければ、世界の学界や諸学者が説得されることはないであろう。残念ながら彼女は、今までのところそういう対話を進めようとはしていない。
実際、多くの学者は『死海文書』がイエスと銅時代のものではなく、紀元前2世紀に由来するするものだとしている。とすれば、この文書の意義は、イエスに先立つ時代のユダヤ教社会の思潮の理解には役立つが、それほど重要な問題提起にはならなくなる。
スィーリング氏は、『死海文書』はイエス時代のものであるとし、エッセネ派クムラン共同体の「義の教師」が洗礼者ヨハネであり、同文書で避難されている「偽りの教師」「悪しき祭司」がイエスであるとの仮説を立てている。そしてペシュルを用いると、福音書の奇跡物語の下に意図的に隠されているという歴史的事実を「合理的に」解読でき、しかもイエスは十字架刑の後にも生き延び、マグダラのマリアと結婚し、子どもをつくり、70歳まで生きたとするのである。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ユダヤパウロは、イエスをペテン師としてキリスト教信者を迫害していた。
しかしパウロは、シリア・ダマスカスへの道でイエスの声を聞き、天の光に打たれて回心しキリスト教の伝道活動を行い、キリスト教発展の基礎を作ったといわれる。
パウロは生前のイエスとは面識がなく、聖書に書かれた基本的な概念はパウロが創作したものだともいわれる。
では、何を根拠に聖書の中のイエス像が書かれたのか。
紀元前200年頃から、ユダヤ教エッセネ派の一部である「クムラン教団」が死海西岸のクムランに住んでいた。
エッセネ派は、俗世間から離れて自らの「宗教的清浄さ」を追求し、厳しい修行をしていたグループといわれる。
このクムラン教団の中に神から遣わされたという預言者がいて、紀元前50年頃に処刑された。残された人々は、処刑された預言者の復活を信じていたといわれる。
もしかして、イエスは2人いて、パウロが書いた聖書の中のイエス像は、クムラン教団の中で処刑された預言者がベースになっているのではないだろうか。
こんなことを書くから、嫌われるのかもしれない。