じじぃの「科学・芸術_101_万里の長城・遊牧民族との抗争史」

[世界遺産在中国 1080HD] 35 - 長城 - 上集 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LTjLpw9-Shg
万里の長城 (inoues.net HPより)

万里の長城

遙かなる北京−6−
はやわかり 万里の長城
http://inoues.net/china/beijing8.html
『逆説の世界史 1 古代エジプト中華帝国の興廃』 井沢元彦/著 小学館 2014年発行
万里の長城が物語る漢民族 VS 遊牧民族の抗争史 (一部抜粋しています)
中国の古代都市は、それが都市である以上、すべて城壁によって囲まれていた。諸国の首都は完全な城壁都市で、さらにその上に国全体を城壁で囲っていたのである。つまり、都市の城壁が内壁、国境線の城壁が外壁ということだ。そして中国を統一した始皇帝は、諸国ごとの国境線の城壁は廃止し、その代わりに遊牧民族の来襲を防ぐため、北川の草原地帯に面した城壁を1つに繋いだ。これが万里の長城である。
当時の万里の長城は、現在世界遺産に指定されているものとは大きく異なっていた。あのような煉瓦で覆われた立派なものではなかったのである。煉瓦で被覆されたのは明王朝の時代以降のものだ。古い時代のものと思われる長城の遺跡も一部見つかっているが、それは版築(板などの枠に土を入れて壁を造る土嚢の製造法)による高さ2メートル、幅が最大5メートル程度のものであった。要するに、馬(騎兵)が乗り越えられなければ、当面の役には立つのである。
中国大陸は北半分が遊牧民族の支配する草原地帯、南半分が農耕地帯の支配する田園地帯という特性を持つ。この南半分に本拠を置いた農耕民族である漢民族が、自分たちの国土を世界の中心つまり中国と称したのである。
従って、中国史とは遊牧民族と農耕民族である漢民族との抗争史でもあった。
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万里の長城が出来て、それが次の王朝に受け継がれていく中で、中国文明はそれまでやられっぱなしであった遊牧民族に反撃できるようになった。農耕民族の文明の安定性が、具体的に言えば定住における食糧やその他の蓄積が、遊牧民族に対する軍事的征伐を可能にしたのである。
始皇帝の秦を滅ぼして痕濃くされた、長安を都とした漢王朝の前期(前漢 BC202〜AD8年)は、組織された軍事力で匈奴を駆逐し、中国の領域をシルク・ロードの一角まで拡大した。しかしその後、遊牧民族が盛り返したため、後の唐王朝万里の長城を維持できなかった。
万里の長城を復活したのは、皮肉なことに農耕民族である漢民族の王朝ではなく、遊牧民族征服王朝として中国北部に成立した金王朝(1115〜1234年)であった。建国した民族の名は「女真」と表記された。男尊女卑の中国文化では「女」という字も差別的ニュアンスになる。
女真はもともと遊牧民民族であったが、漢民族の支配する中国の北半分に侵入しこれを奪ったのである。そのために漢民族の王朝である宋(960〜1127年)は南に移転し、「南宋(1127〜1279年)」と呼ばれるようになった。ところが、農耕地帯である中国に入った金王朝は、遊牧民族の勇敢さを失い軍事的には弱体化した。そこへ別の遊牧民族である蒙古が北から攻撃をかけたのである。そこで金は南宋を滅ぼし中国を統一することをいったん諦め、まさに皮肉だが、遊牧民族に対する防衛線である万里の長城を復活せざるを得なかった。
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元は万里の長城などまったく必要としなかった。彼らは東ヨーロッパおよびロシアなどまで勢力下に収めたからである。しかし、彼らも中国化つまり農耕民族化して弱体化すると、漢民族の王朝である明が成立した。
明は当初、万里の長城には関心を抱かなかった。遊牧民族に対する防衛よりも漢民族の本拠地である中国という農耕地帯を固める必要があったからだ。しかしその作業が終わると、3代皇帝であった永楽帝(1360〜1424年/在位1402〜1424年)は、都を南京から北京に移し、領土の拡大を図った。それは当然北方の遊牧民族のテリトリーである草原地帯に一歩も二歩も踏み込むことになる。
そこで永楽帝は長城を復活整備した。現在世界遺産として指定されているのはこの長城である。