じじぃの「封印された謎・ゲルマン民族の大移動・遊牧民フン族の正体とは?世界史の雑学」

フン族匈奴なのか?同族説の実際のところ

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=F80SKf5Fu38

馬に乗り戦うフン族の王アッティラ


アッティラ王が率いたフン族 残忍ではなかった?

2019.09.24 ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
西暦370年頃、フン族の大軍はヨーロッパへと進んだ。
その過程で、ゲルマン諸族は支配下に置かれ、拡大するフン族の領土から逃げるように他の土地へと移っていった。ところで、フン族は一般に残忍とされているが、本当にそうだったのだろうか?
ただ、この問いに答えるのは難しい。歴史家のピーター・ヘザー氏は「フン族は今も多くの謎に包まれている」と記している。何しろ、彼らの歴史について記録された文書はほとんどなく、その起源もはっきりしないのだ。
フン族遊牧民族で、現在のカザフスタンあたりで勃興し、350年頃にはステップ地帯東部を制圧したと考えられている。なかにはフン族を、紀元前3世紀末から紀元前2世紀初頭にかけてアジアの大半を統一した遊牧民族匈奴(きょうど)に連なるチュルク語族だとする学説もある。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/091800538/

『失われた世界史 封印された53の謎』

歴史の謎研究会/編集 青春文庫 2018年発行

アッティラの死の謎――「ゲルマン民族の大移動」を招いたフン族、その王の不可解な死 より

ゲルマン民族の大移動を招くきっかけとなったフン族の存在。彼らは中国の史書で言う北匈奴の後裔なのか。フン族の最盛期はアッティラが王を務めたときで、黒海北岸からライン川流域までを席巻した。それだけにアッティラの急死はさまざまな憶測を呼び、新婚初夜で腹上死説や暗殺説などが乱れ飛んだ。

謎多き遊牧民フン族

フン族とその王アッティラの名は、ヨーロッパでは長く悪魔の代名詞のごとく使用されてきた。それだけ彼らに与えたインパクトが大きかったわけで、のちのモンゴルが傘下の一部族タタールの名をとり、「タルタロス(ラテン語で「冥界」の意)」と呼ばれたのといい勝負である。

フン族が何者かという論争は今なお決着を見ていないが、中国の史書北匈奴の名で登場する遊牧集団の後裔とする説が古くから有力視されてきた。北匈奴後漢との度重なる戦いに敗れ、紀元91年には根拠地であるモンゴル高原北部のオルハン河畔を捨ててイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区北西部)に移る。そこでまた後漢との抗争に敗れ、2世紀の中頃にキルギス地方に西遷したのを最後に中国の史書から名前が消えた。

ヨーロッパにフン族が姿を現わすのが4世紀だから、時期的には符号する。地球規模の気候変動により、アジアの草原地帯では養える人口数は極端に減少した。そのため人びとは強いリーダーシップを持つ部族のもとに身を寄せ、西へと移動をしながら略奪を繰り返すことで膨張を続けた。

彼らが移動の果てに行き着いたのがヨーロッパの東部で、彼らの圧力に抗しきれず、ゲルマン民族の大移動が開始された。

以上が北匈奴フン族説に立った歴史の流れだが、実のところ、匈奴という民族からして捉えどころの難しい存在だった。

これは他の遊牧民族にも共通することだが、匈奴と呼ばれたからと言って、そのすべてが匈奴であったわけではなく、匈奴が多数決であったとも限らない。部族集団のトップに匈奴が収まっていただけというのが実情なので、匈奴に指導層がトルコ系だったのかモンゴル系だったのかという点からして、容易に判断しかねるのが実情なのだ。

それに加え、場所は違えども遊牧民族の習俗には共通点が多く、一致点があるからといって共通の祖先を持つとは限らない。遺物に関しても同じことが言える。

とはいえ、匈奴フン族あともにトルコ系の言語を話し、中国の五胡十六国時代イラン系ソグドの商人が匈奴を指してフンと呼んでいたとの記録もあることから、北匈奴フン族説が非常に魅力的であることに変わりはない。イラン系をはじめ、さまざまな民族と婚姻を重ねていただろうが。

暗殺かそれとも腹上死か?

フン族の侵攻は止まるところを知らず、草原地帯を抜け、ヨーロッパ大陸に入り込んでからも猛威を振るい続けた。

451年には西ゴートやブルグンド、フランクなどのゲルマン諸部族を味方につけた西ローマ帝国とのカタラウヌムの戦いで敗れはしたが、すぐに態勢を立て直し、略奪の旅を継続した

匈奴の衰退がはじまるのはカタラウヌムの敗北ではなく、453年の指導者アッティラの急死を契機とした。
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また、同じく6世紀のヨアンネス・マラススはその著『世界史』のなかで、「アッティラの暗殺は護衛の1人によるものとする」など、アッティラの急死については早くから諸説入り乱れていたことがうかがえる。

真相が腹上死であれ暗殺であれ当時のヨーロッパ人にとってアッティラの急死が朗報であったことは間よ害ない。事実、死を境にフン族の勢いはみるみる衰え、最盛期には黒海北岸からライン川流域にまで達していた領域がハンガリー平原のみにまで圧縮されてしまい、以降、二度とヨーロッパの脅威となることはなかった。

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どうでもいい、じじぃの日記。

ゲルマン民族の大移動を招くきっかけとなったフン族の存在

フン族遊牧民族で、現在のカザフスタンあたりに住んでいたらしい。

アッティラの墓が見つかっていないのはなぜ?

一説によると、アッティラは子作りには熱心だったが、墓とかは興味がなかったとか。

古代中国からみれば、匈奴フン族)とかは未開の地の民族だったようだ。

墓があれば、副葬品などからどんな生活をしていたか分かるのかもしれない。

もし、遺体が見つかったら、アッティラの顔はアジア系なのか白人系(トルコ系)なのか、助平な人物だったのか(?)がDNA鑑定で分かるに違いない。