じじぃの「歴史・思想_361_死海文書物語・クムラン・エッセネ派仮説」

How We Got the Bible Animation - The Dead Sea Scrolls HD

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Dead Sea Scrolls - Story of the Essenes - One Minute History

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死海文書の一部

死海文書の謎に新説が浮上

2010.07.28 ナショナルジオグラフィック日本版サイト
死海文書はいまから60年以上前に、要塞都市クムラン付近の海岸の洞窟群で発見された。
紀元前2世紀から紀元1世紀にかけてクムランで精力的に活動していたとされるユダヤ教の1グループ「エッセネ派」が、死海文書をすべて書いたというのがこれまでの一般的な見方だ。
ところが新しい研究では、死海文書の多くはユダヤ教の複数のグループによってクムラン以外の場所で書かれたと示唆された。その一部は、紀元70年頃にエルサレムをめぐってユダヤローマ帝国の間で起こった攻防戦から逃れた集団だという。この戦いでは伝説に残るエルサレム神殿も破壊されている。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/2945/

死海文書 物語: どのように発見され、読まれてきたか』

J.J.コリンズ/著、山吉智久/訳 教文館 2020年発行

死海文書の発見 より

1948年4月10日、イェール大学報道局はある発表を行い、それは翌日の英語圏の主要な新聞に次のように掲載された。
  旧約聖書の『イザヤ書』全体について、これまでに知られている中で最も初期の写本がパレスチナで発見された。これは本日、イェール大学教授で、エルサレムにあるアメリカ・オリエント研究所所長のミラー・バロウズ氏により発表された。
  更に、3つの未公刊の古ヘブライ語写本が聖地の学者たちによって発見されている。それらのうちの2つは同定、翻訳されているが、3つ目のものは識別の最中である。
  預言者イザヤの書は、保存状態の良い羊皮紙の巻物に記されていた。研究所の研究員ジョン・C・テレヴァー博士はそれを調べて、既知の中で最古のヘブライ語聖書の写本であると多くの学者たちが信じてきたナッシュ・パピルスの書体と類似していることを確認した。
  巻物は紀元前1世紀前に年代付けられることから、この発見は特に重要である。『イザヤ書』の他の完全なテクストは、紀元後9世紀近くにならないと存在しないことが知られている。

クムランはエッセネ派の居住地だったのか より

『共同体の規則』に記述されている宗教共同体がエッセネ派(パリサイ・サドカイ両派とともに、イエス時代のユダヤ教3大宗派の1つ。儀式的、律法的な清潔を重んじ、独身を守り、農業を中心とする修道院的共同生活を営んだ)であるという仮説は、1つにはプリニウスによる、死海の西にあるエッセネ派共同体についての言及に基づく。この注記は、クムランがエッセネ派の居住地であったか否かについての議論でも大きな位置を占めてきた。プリニウスは、エッセネ派の位置についてはあまり具体的ではなく、彼らが死海の西に住んでいて、「自分たちと不浄な海岸との間に必要な距離を置いている」と述べている。彼は続けて、「彼らの下(infra hos)にはエン・ゲディ」があると言う。プリニウスの記述は北から南へ進むことから、大半の学者たちはこれをエン・ゲディがエッセネ派の南にあることを意味すると捉えてきた。しかしながら、要点は相対的な標高であると考える人もいる。イツァル・ヒルシュフェルトは、エン・ゲディ上方の崖の上に「隠遁者たち」の居住地の証拠を見つけたと主張したが、他の人々は、当該の遺跡は農業施設の痕跡ないし羊飼いの小屋であるとしてこれを却下した。死海文書の発見以前は、プリニウスの記述がクムランの特定の地域を示唆するものとして解されることは決してなかった。彼は特定の場所を念頭に置いてはいなかったと主張されることもあった。しかし、場所がエン・ゲディと関連付けられていることから、それはあり得ない。死海文書が発見された洞窟に隣接して、浄めのためのプールを数多く備えたクムランの共同体の居住地と見なされるものが発見されたのは、大半の学者にとって、偶然と呼ぶには出来過ぎなことであったと思われる。
クムランをエッセネ派の居住地とする同定は、引き続き圧倒的な同意を得ている。
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エッセネ派仮説は遺跡の解釈に浮沈がかかっているとの思いから、クムランは遺跡に関する議論はしばしば熱を帯びた。しかしながら、それは適切ではない。たとえクムランに居住したのがエッセネ派の共同体ではなかったとしても、巻物がおそらくエッセネ派の1つないし複数の共同体について記述していることはあり得る。しかし、遺跡の解釈について活発な議論が行なわれることは無駄ではない。長い間、クムランは荒野の孤立した場所で、その居住者は外界から完全に切り離されていたと考えられていた。しかし完全な隔離という考えは非現実的であり、クムランの住民は、この地域における他の人々とさまざまな種類の商業関係を結んでいたことが今では明らかになっている。クムラン出土の陶器とエリコ出土の陶器との類似性は、そのことを示す適切な事例の1つである。埋葬の習慣さえも、死海地域の地方習慣による影響を受けていたかもしれない。更に、住民が本当にエッセネ派であったとすれば、彼らがユダにおける他の多くの地域社会と関係していたことを予期すべきである。クムランはエリコの近くにあり、エルサレムからもあまり離れていなかった。この遺跡が時として想定されていたように孤立してはいなかったということを認めさせるために、死海での活発な活動を想像する必要はない。それはエッセネ派仮説に対する反証などではなく、どんな宗教的な共同体が死海沿岸に住んでいたのかについての、より現実的な評価を求めているに過ぎない。