じじぃの「歴史・思想_365_死海文書物語・死海文書をめぐる戦い」

The Riddle of the Dead Sea Scrolls

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=B0qQq6LXFv0

Oldest Old Testament Bible manuscripts: Qumran

Ancient Bible manuscripts called “Dead Sea Scrolls” originate from five primary sites listed in their geographic order north to south:
https://www.bible.ca/manuscripts/Septuagint-LXX-oldest-manuscripts-Bible-Ancient-copies-Dead-Sea-Scrolls-Qumran-Masada-Nahal-Hever-Nahal-Seelim-Wadi-Murabbaat-Masoretic-Greek-Hebrew-Aramaic.htm

死海文書 物語: どのように発見され、読まれてきたか』

J.J.コリンズ/著、山吉智久/訳 教文館 2020年発行

死海文書をめぐる戦い より

争いの根底にあるもの

これら(死海文書に関する訴訟)の争いを詳しく述べていると、2つの有名な諺が思い浮かぶ。1つはヘンリー・キッシンジャーの格言で、「学術論争は、問題が少ないがゆえに激しい」。もう1つは、フランス革命に対するエドマンド・バークの名言で、「革命を起こしたのは虚栄心である。自由は言い訳に過ぎない」。
学問的にも非学問的にも、最も激しい論争において多大な役割を果たしたのがエゴであることに疑いの余地はない。他の学者たちにテクストを利用させたがらない編集者たちは、自由な利用が無能なスクープ記者たちによるナンセンスの拡散につながると率直に信じていたとしても、自分たちの特権的な立場を守ろうとしていた。巻物の公開を最も声高に訴えた人々も、私欲から自由ではなかった。学問の世界では、何かを成し遂げることで名声や地位を得ることができた。学者たちは、たとえ達成の重要性が普遍的なものではないとしても、何かを公刊した最初の者であるという主張に価値を認める。白熱した議論は時として個人的な反感を引き起こし、それが最も激しい論争の一因となった。しかしながら、激烈な論争に関与したのは、いつでも少数の人々だけだったと言われるべきである。この分野の大半の学者たちは良い仲間関係を保ち、論争への欲求はごく限られていた。
いずれにせよ、死海文書の公開は明らかに歓迎されるべきことであった。公式の編集者たちは切迫した警告を行ったが、混乱は生じなかった。確かに、突拍子もない憶測が時にはあったが、思想界には、最終的にはもみ殻から小麦を分離する術がある。あらゆる出来事は、将来の発見がどのように扱われるべきかを示す教訓として役立ち得る。資料が割り当てられた編集者の特権は、無制限には引き延ばせない。学問の最大の貢献は、生み出すのに一生を費やすかもしれない決定版と考えられるものを待たせるよりも、暫定的な形でも資料を速やかに利用できるようにすることである。
死海文書が、エジプトのナグ・ハマディ出土のコプト語写本などの他の重要な発見よりも大衆の関心を得た理由は、それらが西洋世界の歴史において非常に重要な時代と場所に由来するという事実による。イエス時代のユダヤからの主要な文書として。死海文書はキリスト教が生まれた文脈を知る機会を提供する。より直接的には、エルサレムの崩壊やラビ運動の出現以前のユダヤ教がどのようであったかについて、これまでに例のない見解をもたらす。あらゆる考古学的な発見と同じく、後の権力者たちによって編集されていない原資料を提供し、その結果として、教会やシナゴーグがその公的な系譜を構築する以前に、物事が実際にはどのようであったかについて知る手がかりを提示する。新たな発見は、公式の説明に疑問を呈し、宗教的な権力者たちの権威を弱める可能性を秘めていることから、ユダヤ教キリスト教のいずれにとっても危険性は相当なものである。
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しかし、良くも悪しきも、死海文書はこのような劇的な方法でユダヤ教キリスト教も覆すことはなく、むしろ初期キリスト教のいくつかの考え(例えば、メシアは神の子と見なされ得たということ)が前例のないものではなかったことを示している。何人かの学者たちはこのことを密かに擁護してきたが、実際、学者たちは常に、初期キリスト教徒がユダヤ教などの考えをさまざまな方法で適用したことを知っていた。当然のことながら、死海文書がある特定の宗教信仰を確証することはない。それらが示すのは、ユダヤ教の特定の形式について、紀元前1世紀には既に十分な証拠があること、またヘブライ語聖書の伝統的なテクストが、紀元前後には他の形式のテクストも知られていたとしても、キリスト教以前の時代に遡ることである。しかしながら、ユダヤ教キリスト教の双方が基盤とする神の啓示の基本的な主張は、歴史的な発見によってそれほど簡単には確証も棄却もされない。
死海文書は、ホダヨトないし『感謝の詩編』の宗教詩や、もちろん聖書テクストという議論の余地のある例外を別とすれば、偉大な文学ではない。それらは現代神学を変えるような偉大な新しい宗教的な洞察も含んではいない。集成の中核は、宗派的な文書で成り立っている。これらの文章は、アイゼンマンや彼の追随者たちが考えるほど外国人を嫌悪するものでも憎しみに満ちたものでもないが、世界から彼ら自身を切り離そうとした宗教的な過激派の見解を反映している。この運動が生き残れなかった理由、そしてその教義が主流のユダヤ教に取り入れなかった理由は、それらがあまりに極端で、持続的な魅力を持たなかったことにある。
しかしながら、死海文書は歴史的にきわめて重要である。それらが発見される前歯、マカバイ時代とミシュナ時代の間に、ユダヤ出土のヘブライ語ないしアラム語の文献はなかった。死海文書は、この時期のユダヤ教に関する知識を数え切れないほどの方法で埋まるのである。文書集成の多くは、宗派的なイデオロギーが見られるものの、そこには当時の一般のユダヤ教を反映する多くの資料も含まれている。エッセネ派仮説をめぐる議論の多くは、一方で死海文書を周辺的だ些細なものとして、または他方で主流派のユダヤ教の代表として見ようとする矛盾した欲求に支えられていた。周辺的か代表的かは、二者択一ではない。死海文書に反映されている宗派運動は、それが消滅し、後のユダヤ教伝統にはっきりとした影響を及ぼすことのない運動だったという点で周辺的なものであった。しかし、それは完全に孤立したものではなく、洞窟内で発見された文書はさまざまな形で当時のユダヤ教に光を当てる。
死海文書は、学者たちがこの四半世紀をかけて次第に認識してきたように、古代ユダヤ教の文書である。煽情主義者の主張をよそに、それらはキリスト教徒によるものではなく、ナザレのイエスや彼らの信従者たちの直接の目撃者でもない。それにもかかわらず、それらはイエスが生き、最初期のキリスト教が形を取った文脈を照らし出している。