じじぃの「シャピラ事件・本物の古代文書が偽造扱いされた男の悲劇!だましの文化史」

How We Got the Bible Animation - The Dead Sea Scrolls HD

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ax2i8SvbMj4

死海文書

死海文書

ウィキペディアWikipedia) より
死海文書(Dead Sea Scrolls)あるいは死海写本は、1947年以降、死海の北西(ヨルダン川西岸地区)にある遺跡ヒルベト・クムラン(英語版) (Khirbet Qumran) 周辺で発見された972の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなっている。
死海文書の発見場所は1947年当時イギリス委任統治領であったが、現在ではヨルダン川西岸地区に属している。「二十世紀最大の考古学的発見」ともいわれる。なお、広義に死海文書という場合、クムランだけでなく20世紀後半の調査によってマサダやエン・ゲディ近くのナハル・ヘベルの洞窟から見つかった文書断片なども含むので、文書数には幅が生じる。

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『だましの文化史 作り話の動機と真実』

ゴードン スタイン/編著 GALEブックス 2000年発行

シャピラ事件 より

これは、偽造犯の濡れ衣を着せられた男が、自殺に追い込まれた事件である。偽造扱いされたのは、あの「死海文書」に似た、古代の巻本の断片だった。
モーゼス・ヴィルヘルム・シャピラ(1830~1884)はウクライナキエフに生まれた。ユダヤ人の家庭の出だったが、イェルサレムに移り住んでからは、キリスト教に改宗した。ルター派の女性と結婚し、娘が2人できた。やがて下の娘は、ミリアム・ハリーというペンネームを使い『イェルサレムの少女』というタイトルで父シャピラの伝記を書いた。この伝記はシャピラの若い頃を伝える唯一の資料になっている。シャピラはイェルサレムで店を開き、店頭では観光客向けの装飾品を売り、裏ではユダヤ教に関する珍しい古写本や古書を売っていた。
1868年、あるドイツ人牧師が死海の東部で、文字の彫ってある黒い玄武岩の石碑らしきものが、半分砂の中に埋っているのを発見した。掘り出してみると、石碑は、高さ3.5フィート(約1メートル6センチ)幅2フィート(約61センチ)もあり、表面には古代セム文字が何行にもわたってびっしりと彫られていた。解読の結果、その石碑は起源前9世紀にモアブ王がイスラエルに対して起こした時反乱を伝える碑文であることが判明した。この発見を聞きつけたシャピラは、自分もそのような大発見をしてみたいという大望を抱いた。しかしシャピラのセム語の知識は十分ではなかった。そのため、身に覚えのない偽造犯とされてしまうのである。
それ以前にも、彼は似たような文字の彫ってある陶器を、ドイツ政府に売ったことがあった。彼は死海近くのディーバンと呼ばれる土地の遺跡発掘のスポンサーを務めており、陶器はそこから出土したものとてっきり思い込んでいた。しかし実際はイェルサレムの郊外で偽造されたもので、彼の発掘隊が作業していた土地にあらかじめ埋められていたものだった。
その後、同じ発掘現場の近くで、ある古代文書の断片が発見されたことを知人から知らされたシャピラは、仲介者を通して、その断片を買った。古代文書は15枚の細長い羊皮紙から成っており、ほとんどが縦3.5インチ(約9センチ)の大きさだった。色は黒ずんでいて文字はほとんど見えない状態だったが、シャピラは羊皮紙を水で濡らすと文字が浮かびあがることを知っていた。この古代文書を解読しているうちに、旧約聖書の「申命記」の古代の異文(異テキスト)ではないかと思いはじめた彼は、その写しを、ハレ大学の旧約学専門の教授に送った。教授の返事は、今日一般に認められている「申命記」のテキストとあまりにも違いすぎて、本物とは認められないとのことだった。シャピラもこの鑑定には異を唱えるべくもなく、古代文書は銀行の金庫に置くに眠ることになった。
数年後、新しい聖書原典批評の本を読んだシャピラは、すっかり驚いてしまった。「モーゼの五書」の編纂には、いくつもの異なった資料が使われていたというのである。しかも「申命記」でさえ、ヤハウェ資料と祭司法典を資料としていたというのだ。すると彼の古代文書も、もしかしたら「申命記」の原テキストかもしれないという思いが、再び頭の中で広がりはじめた。彼は何時間も費やして羊皮紙の調査と復元にあたった。

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どうでもいい、じじぃの日記。
歴史学の専門家でない人が、古代文書を発見した。
ドイツやフランス、イギリスの専門家のところに行き、この古代文書は本物であると訴えたが、偽物と判定され最後はピストルで自らの頭を撃ち抜き自殺してしまった。
彼の発見した古代文書は本物で、後に「死海文書」が発見され、偽造犯の汚名は返上されることになった。
まあ、人生いろいろです。