じじぃの「人の死にざま_1535_ジョージ・スミス(ギルガメシュ叙事詩)」

ISIS militants bulldoze ancient Assyrian city of Nimrud, destroy priceless historical artifacts 動画 YouTube
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Biblical Flood Vs Epic of Gilgamesh Flood 動画 YouTube
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楔形文字で書かれた 『ギルガメシュ叙事詩

オリエントの歴史と文化ー古代学の形成と展開ー 筑波大学附属図書館
●ジョージ・スミス Smith, George (1840 - 1876)
イギリスのアッシリア学者。ロンドンで生まれ、銀行で働く傍ら、大英博物館楔形文字研究に没頭した。
それがローリンソンの目に留まり、1867年大英博物館アッシリア部門の研究者になった。1873年から2年間、デイリー・テレグラフ社と大英博物館の出資によりニネヴェとニムルドを発掘した。1876年ニネヴェの「アッシュル・バニパル図書館」を発掘するため再びロンドンを出発するが、途中で熱病にかかり、同年アレッポで死去した。メソポタミアの洪水物語や創世神話の研究など、アッシリア学黎明期の研究者として高く評価されている。
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/orient/cat_h16.pdf
ニムルド ウィキペディアWikipedia)より
ニムルド(Nimrud)は現在のイラク北部ニーナワー県にある、古代アッシリアの重要な考古遺跡。ニネヴェ遺跡の南方、現代の都市モースルより南東30kmにありチグリス川に面している。遺跡の範囲は41平方kmにおよぶ。
アッシリアの時代にはカルフ(Kalchu, Kalkhu)と呼ばれる都市であり、一時はアッシリア帝国の首都でもあった。後のアラブ人は都市の遺跡を、狩人の英雄でありアッシリア地方の強力な王であったニムロドにちなみ、ニムルドと呼んだ。
ニムルドは旧約聖書に登場する都市カラフ(カラハ、Calah, Kalakh)の場所と同定されている。
【発掘】
ニムルド遺跡の最初の発掘は、1845年から1851年にかけてイギリスの考古学者・外交官オースティン・ヘンリー・レヤード(Austen Henry Layard)により行われ、巨大な宮殿跡や石像、アラバスター石灰岩の石碑、象牙の彫刻などが発見された。彼は出土物から、この遺跡を旧約聖書で名前はよく知られていたニネヴェ市の市街地区だと考えた。
続いて、レヤードの助手であったモースル生まれのアッシリア人ホルムズド・ラッサム(Hormuzd Rassam)による発掘(1853年-1854年、および1877年-1879年)、イギリスの地質学者・考古学者ウィリアム・ロフタス(William Loftus)による発掘(1854年-1855年)、イギリスのアッシリア学者ジョージ・スミス(George Smith)による発掘(1873年)、イギリスの考古学者マックス・マローワン(Max Mallowan)による発掘(1949年-1957年)による発掘が行われた。
ギルガメシュ叙事詩 ウィキペディアWikipedia)より
主人公のギルガメシュは、紀元前2600年ごろ、シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王であるが、後に伝説化して物語の主人公にされたと考えられる。
19世紀にアッシリア遺跡から発見された遺物の一つで、1853年にホルムズ・ラムサンによって始めて発見され、大英博物館の修復員であるジョージ・スミスが解読を進め、1872年に『聖書』と対比される大洪水の部分を見つけ有名になった。始めのうちは神話と見なされていたが、その文学性に注目が集まり次第に叙事詩とされるようになり、19世紀末には研究がさらに進み、「ギルガメシュ」と読めることを発見しアッシリアギルガメシュであることを発表した。これ以後1900年の独訳を嚆矢に、各国語への翻訳が進み、各地の神話、民話との比較がされている。和訳は矢島文夫により完成し、1965年に山本書店から刊行された。

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筑摩書房 ギルガメシュ叙事詩 / 矢島文夫 著
初期楔形文字で記されたシュメールの断片的な神話に登場する実在の王ギルガメシュの波乱万丈の物語。
分身エンキドゥとの友情、杉の森の怪物フンババ退治、永遠の生命をめぐる冒険、大洪水などのエピソードを含み持ち、他の神話との関係も論じられている最後の世界文学。本叙事詩はシュメールの断片的な物語をアッカド語で編集しアッシリア語で記されたニネベ語版のうち現存する2000行により知られている。文庫化に伴い「イシュタルの冥界下り」等を併録。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480084095/
ギルガメシュ叙事詩 矢島文夫/著 筑摩書房 1998年発行
第11の書板 より
5日目も4日目もニシルの山は(船をとらえて動かさなかった。)
7日目にやって来ると、私は鳩を解き放してやった。
鳩は立ち去ったが、舞いもどって来た。
休み場所が見あたらないので、帰ってきた。
私は燕を解き放してやった。
燕は立ち去ったが、舞い戻って来た。
休み場所が見あたらないので、帰ってきた。
私は大鳥を解き放してやった。
大鳥は立ち去り、水が引いたのを見て、ものを食べ、ぐるぐるまわり、カアカア鳴き、帰って来なかった。
そこで私は4つの風に(鳥のすべてを)解き放し、犠牲を捧げた。
解説 発見と研究 より
文明は発祥の地メソポタミアに数千年間にわたって栄えたアッシリアバビロニアの両大国と、それを取り巻く大小さまざまの民族の文明は、つづいて起こった地中海の諸勢力によってかわられ、キリスト誕生と前後して次々に歴史の暗闇のうちに消えていった。その昔栄えた壮麗な都城は砂とほこりにまみれた廃墟と化し、碑文や印章に広く使われた象形の、あるいは楔形の文字もついには忘れ去られた。それから数百年、19世紀の中ごろに至るまで、砂漠と廃墟の丘にはアラブの遊牧民とトルコの兵士たちが行き来はしたが、古代はずっと眠りつづけていた。時たまヨーロッパから来た旅行者が未知の遺跡を見出して、旅行記や見聞録によってそれらを報告した。1172年にシリアの遺址パルミラを訪れたトゥデラのベンヤミンの記録があり、またはるかにおくれて、1616年にこの地に入ったイタリア人ピエトロ・デュラ・ヴァレと、1630年に旅行したフランス人ジャン・バティスト・タヴェルニエの名は有名である。またフランス人ミショーが1786年にヨーロッパにもたらした不思議な石は、表面に得体の知れぬ記号――楔形文字が刻まれていて見る人を当惑させた。この「ミショーの石」は今はルーブル美術館に収められてアッシリア学の道程標の1つとなっている。
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楔形文字の解読の歴史は、この限られたスペースにはとても書ききれない。ドーブルホーファーらにより詳しく書かれた著作を参照されたい。初期の何人かの人たちを別とすれば、楔形文字の解読の最終段階に登場するのは、ローリンソン、ヒンクス、オッペールである。この3人が同一テキストを同時に翻訳した1858年は、アッシリア語の解読が公式に認められた年ということができる。そののちヨーロッパのオリエント学者たちは次々に研究を積重ね、一たび埋もれた古代メソポタミアはふたたび姿を現して来たのである。
フランスはボッタの次にヴィクトル・プラースを派遣し、イギリスはレヤードの次にローリンソンがその仕事を引継ぎ、すべてに強引なラッサムが各地を掘りまくった。当時の発掘は考古学上の調査というよりも、博物館のためによい戦利品を手に入れることが第1の目標であった。とりわけラッサムによる乱掘は目にあまるものがあった。学術的な発掘が始まるのは次の時代になってからである。
メソポタミアにおける各地の発掘には、次にドイツとアメリカが加わり、2度の世界大戦によってしばらく中断されはしたが、現在に引継がれて行われている。それらの詳細はアンドレ・パロその他の人たちによる著作に見ることができる。
レヤードやラッサムが掘り出したアッシリアの発掘品の多くは大英博物館へ運びこまれた。だが例の粘土板の言葉が読み解かれ、その内容が世に知られるまでにはさらに10年、20年の歳月が必要であった。そのころ大英博物館ジョージ・スミスが、運び込まれた遺物の修理員として働いていた。彼は若い時から奇妙な楔形の文字に魅せられ、ここで働くうちにかなり読みこなすようになっていた。1872年に、かのラッサムがニネヴェの宮殿址で発掘した粘土板の断片を調べているうちに、彼は意外な発見をした。その時のようすを彼の言葉で知ることができる。
「これらの断片の着実な捜査を始めると間もなく私は半分になった妙な書版を見出したが、それは当初は明らかに6つの欄をもっていたものであった。その第3欄を見ていると、私の眼は、船がニシルの山に停まったという記述に捕えられた。それには、鳩をはなしたこと、それが立ち止まるところもないのでもどって来たという話がつづいていた。私はすぐさま、ここに<大洪水>のカルデア板の少なくとも一部分を発見したことを見てとった」
これこそのちに『ギルガメシュ叙事詩』の第11の書板とされ、『叙事詩』の中の最大のエピソードとして注目をあびた書板の発見であった。