じじぃの「科学・芸術_460_シュメール文明・絵文字文書」

Tell Brak - Ancient Urban & Religious Centre - Eye Temple 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=X58R_-Nf9mo
Tell Brak Map

Tell Brak Pictographic Inscription

BBC地球伝説 「古代文明のルーツを求めて1 メソポタミア文明 BS朝日
現在のイラクにあたる平野に流れる2つの川、チグリス川とユーフラテス川。この肥よくな一帯に、人類最古の文明であるメソポタミア文明が誕生した。 最初に訪れたのは、メソポタミア屈指の重要都市であるイラク南部の都市ウルク。このウルクに残る遺跡を歩き、およそ6000年前に始まった居住や 都市の形成の過程を紹介する。遺跡はレンガ状のブロックで作られ、建築は神殿や公共の建物として使われた。また農業も積極的に行われ、その範囲は徐々に 拡大していった。まさしく都市の萌芽である。
次に紹介するのは、現在のシリア北東部に存在するテル・ブラク遺跡。1930年代にイギリスのマックス・マローワン卿によって発掘が進められた、 北メソポタミア最大級の街。巨大な神殿跡からは石こうで作られた数百の小さな像が出土されている。胴の上に2つの大きな目がつけられた「目の偶像」と 呼ばれる像、そして円錐状の土器。これら遺跡から発見される文明は、紀元前3000年代のものなのだ。
そして舞台はエジプト、そしてアナトリアギリシャへと展開する。それぞれの地で、技術と文化が発達し文明を完成させてゆく過程を追う。
http://www.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_24_01.html
NHKスペシャル 四大文明[メソポタミア]』 松本健/著 NHK出版 2000年発行
メソポタミアの文字の歴史 より
メソポタミアとその周辺地域では、文字を記すために特徴ある道具が採用された。それは粘土と葦であった。メソポタミア(「川の間」の意味)、すなわちチグリスとユーフラテス両大河流域でふんだんに手に入る粘土を一握り取って粘土板を作り、川辺に茂る葦の茎を削ってペンを作った。粘土の湿り気があるうちに文字や記号をペンで刻み、粘土が乾くと加筆することはできなくなった。またそれが証書であれば、粘土が乾かないうちに文書だけでなく、当事者の印章をも年度に押した。不要になった粘土板文書は割って壊され、破棄された。このような粘土板文書を使用する文字文化は、前4千年紀後半からメソポタミアとその周辺で始まって古代オリエントの各地に広まり、その後およそ3000年間続くのである。
メソポタミア南部のウルク(ワルカ)Ⅳ〜Ⅲ(前3300〜2900頃)の層から大量の絵文字文書が出土した。そのためウルクに住んでいたシュメール人楔形文字の前身である絵文字(古拙文字、ピクトグラフ)を作り出し、さらに楔形文字へと発展させたとする学説も出されたが、現在では似たような絵文字がテル・ブラク(シリア北部)、ニネヴェ(イラク)、スーサ(イラン西部)などにもあったことが知られるようになった。そのためメソポタミア南部を文字発祥の地と限定することはできない。
ユーフラテス川支流のハブール川の川岸にあるテル・ブラクの遺跡から1984年に発見された2枚の粘土板の一方には、10を示す数字と山羊、もう一方には10を示す数字と羊の絵が刻まれていた。これらは前4千年紀後半の原初的な絵文字であった。ウルクから出土した絵文字文書では、動物の頭を描くことによってその動物が表されていることから、どちらかというとテル・ブラクの絵文字のほうがウルクのものより単純であり、より古いのではないかと考えられる。この段階ではまだ言語を特定することはできない。また、絵文字と数字が必ずしもある単語に対応するとも断定できない。オリエント世界(およそ現在のイラン、トルコ、エジプトを結ぶ線で囲まれた地域)では、すでに前4千年紀に遠隔地間の交易が行なわれていたと考えられる。すでに当時から言語を異にする集団の間で意思の疎通が必要であり、そのために絵文字が必要であったのかもしれない。