じじぃの「科学・芸術_691_メソポタミア文明とインダス文明・ペルシャ湾のディルムン」

Pre-Islamic Bahrain - Dilmun 動画 YouTube
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シュメール 楽園伝説

ヘイエルダール 「ティグリス号」

ティグリス号探検記―文明の起源をめぐって〈上〉 (ちくま文庫) 文庫 1989 トール ヘイエルダール (著) amazon
古代人の筏コンティキ号や葦船第一号の航海で有名な、人類学者ヘイエルダールの、三度目の冒険紀行。
古代シュメール、現代のイラク南部に生える葦で作った船・ティグリス号に乗って、五千年前に行なわれていたペルシア湾からインド洋にかけての自由な航海を実証しようと海に出る。冒険と研究が一体になった、興味つきぬ夢への旅。

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ペルシャ湾 横山三四郎/著 新潮選書 2003年発行
楽園伝説 より
ティグリス・ユーフラス川の流れるメソポタミア地方は、人類の文明の揺籃の地である。ここには中国の尭舜の時代、あるいはエジプトのファラオたちの時代のはるか昔、紀元前6千年も前からすでにして人間の知的営みの気配があった。絵文字から人類最古の文字である楔形(くさびがた)文字を考案したのはシュメールと呼ばれるメソポタミアの住人である。
シュメール人、さらにはこの肥沃なメソポタミア地方を目指したアッシリア人らは紀元前3、4千年ごろからティグリス・ユーフラス川の流域に多くの都市国家を築いて互いに覇を争い、盛衰を繰り返した。いまに残る粘土板の楔形文字は、これらの国々が遠くペルシャ湾の彼方まで及んでいた当時の交易について物語っている。
その1つ、アッカド帝国のシャルルキーン王(サルゴン。紀元前2411-2355年)の楔形文字の碑文は、
「キシュの王 シャルルキーン。彼は34回もの戦闘に勝ち抜き、海の果に至るまでの城壁を打ち壊した。メルッハの船、マガンの船、ディルムンバーレーン)の船をアッカドの港に停泊させた」
と述べている。また粘土板に刻まれた他の楔形文字は、海の向こうに行った王や商人たち、外国の港から輸入した積荷の長いリストを記録し、船の沈没や海難についても言及している。
これらの記述は、すでに紀元前3・千年紀にして外洋を航海できる船が造られていたことを示すものだが、メルッハという国はどこにあったのか。そしてマガン、ディルムンは――。古代オリエントの謎は幾多の考古学者の心をとらえて離さなかった。
今日、メルッハとはインダス河畔に栄えたハラッパモヘンジョダロの一帯であったと考えられている。
メルッハから輸入されるものは、シュメールの記録によれば金、銀、ラピスラズリ(青金石)であり、黒檀、牛、孔雀、銅、紅玉など。他の記録は錫、象牙、猿、さらには鶏にも触れている。一方、メソポタミア側からは主として羊毛、織物が輸出されたようだが、これほどの昔、メソポタミアとインダスという2つの古代文化圏の間でひんぱんな交流があったというのは人類史のドラマである。おそらくこのとき2つの文明は互いに共鳴し合って、後世に絶大な影響を及ぼしたに違いない。
人類の文明の起源とその伝播した海洋の道を探る文化人類学者のトール・ヘイエルダールにとって、ペルシャ湾は乗り出さないではいられない海だった。
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インダス方面から来る船は、パキスタンの海岸に沿って航行し、ホルムズ海峡でこんどはペルシャ湾の南岸沿いに進路を変えたらしい。北岸は人気もなく、風向きの関係で危険でもあった。その南岸沿いにディルムンはあり、そこには新鮮な飲料水がいくらでも湧き出していた。当時の航続距離の短い船には絶好の位置にあったわけである。
こうしてディルムンは、世界の大部分の地域が文明の気配もなく闇に包まれているころ、メソポタミア文明インダス文明を結ぶ海洋の道であるペルシャ湾の中心的存在となって大いに繁栄した。