じじぃの「神話伝説_49_孟子の思想」

孟子の名言集はすばらしい 動画 Youtube
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中国切手の孟子

『中国人物伝春秋戦国‐秦・漢 1 乱世から大帝国へ』 井波律子/著 岩波書店 2014年発行
諸子百家の時代 墨子孟子荀子韓非子 (一部抜粋しています)
紀元前771年、西周王朝が滅亡してから、紀元前221年、秦の始皇帝(前259 - 前210)が中国全土を統一するまでの550年間、名目的には東周王朝(前770 - 前256)が存続していたが、実質的には諸国分立の乱世がつづく。この大乱世はふつう紀元前403年を境に、春秋時代(前770 - 前403)と戦国時代(前403 - 前222)に区分される。北宋司馬光(1019 - 1086)が著した編年体の歴史書資治通鑑』は、この年(前403)から書きはじめられている。
戦国時代に入ると、弱小勢力はしだいに淘汰され、勝ち残った「戦国七雄」、すなわち中原(黄河流域)の晋を分割した韓・魏・趙、東方に依拠する斉、東北に拠る燕、長江中・下流域一帯を支配する楚、西方に拠る秦の7国が、覇を競うようになる。この疾風怒涛の乱世は、墨子荘子孟子荀子韓非子をはじめ、諸子百家と総称されるすぐれた思想家を輩出した。戦国時代はまさに>諸子百家による、中国思想の黄金時代にほかならなかったのである。
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後世、孔孟(こうもう)と称され、儒家思想の継承者と目される孟子(本名は孟軻(もうか)。前372 - 前279)も、宣王の時代、数年間、斉に滞在し、臨の稷下に住んだことがある。孟子はもともと孔子の出身地に近い鄒 (すう。山東省鄒県)の出身で、孔子の孫にあたる子思(しし)の弟子から儒家思想を学び、学者・思想家としてスタートした。
孟子の母(孟母)はたいへん賢明な女性であり、息子を学者にすべく、大いに教育に心を砕いた。「孟母三遷(孟母の三度の引っ越し)」は、そんな彼女の賢母ぶりを示す有名なエピソードである。孟母は最初、墓地の知覚に居を定めるが、孟子が葬儀や埋葬のまねをして遊ぶのを見て、市場のそばに引っ越す。すると、孟子が商人のまねをして遊ぶようになり、学校に近くに引っ越したところ、礼儀作法(当時の学校の授業科目)の遊びをするようになったので、やっと安心したというものだ。
孟子の思想の基本理念は仁義道徳にもとづく王道論と性善説である。孟子はこの基本理念を理解してくれる君主を求めて、梁(りょう)・斉・宋などの諸国を遊説した。
その言行録『孟子』には、孟子が諸国の君主に向かって、いかに自説の王道論を説いたか、その鮮やかな弁論術がいきいきと描かれている。たとえば、梁の恵王と対面したさい、恵王が自分は隣国の君主よりずっと住民に配慮しているのに、隣国から移住して来る者が増加しないのはなぜか、とたずねたのに対し、孟子は次のように答えている。
 「王は戦いを好む、請う、戦いを以て喩(たと)えん。填然(てんぜん)としてこれを鼓(たいこ)ならし、兵刃(へいじん)既に接するとき、甲(よろい)を棄て兵を曳いて走(に)ぐるに、或(ある)ものは百歩にして後に止まり、或ものは五十歩にして後止まる。五十歩を以って百歩を笑わば如何(いかん)」。
  (王は戦いがお好きですから、戦いを例にとりましょう。ドンドンと太鼓が鳴らされ、戦端が切って落とされたとき、甲(よろい)を棄て刀をひきずって逃げだす場合、ある者は百歩逃げたあと踏みとどまり、ある者は五十歩逃げたあと踏みとどまったとします。そのとき、五十歩逃げた者が百歩逃げたものをあざ笑ったとすれば、どうですか)
この孟子の誘導尋問に対し、恵王が「それはおかしい。逃げたという点では同じだ」と答えると、孟子は「それがおわかりならば、住民の数が隣国より多くなることを望んではなりません」と答えた。要は、基本的な住民重視の政策実地することが王道政治の基本であり、小手先の慈悲くらいでは、無慈悲な隣国の君主と「五十歩、百歩」、大差はないというわけだ。この孟子の言葉がもとになり、少しだけの違いで大局的に見れば変わりはないことを、「五十歩、百歩」というようになる。