じじぃの「人の死にざま_1391_ファン・ドールン」

ファン・ドールンの銅像

NHKスペシャル 街道をゆく 第2シリーズ 第1回 オランダ紀行
江戸時代、鎖国という情報統制の中で、長崎出島オランダ商館から伝えられた西洋文明。作家・司馬遼太郎は、「暗箱のような日本に射(さ)し込んでいた唯一の外光」だと記しています。その光源である17世紀オランダの姿と国の成り立ち、そして、日本との関係を探るべく、平成元年(1989)、司馬はオランダに渡りました。第一回は日本に多大な影響を与えたオランダの歴史と文化に迫ります。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011031647SA000/
猪苗代湖畔にあるファンドールンの碑・十六橋(じゅうろくきょう)の写真をUPしました。 会津・磐梯 お宝どんどん
ファンドールン
明治5年、明治政府へ土木技術者としてオランダから招かれ、大久保利通(おおくぼとしみち)の命令により安積(あさか)地方一帯(今の郡山市から須賀川市、本宮町に至る広大な荒野)に猪苗代湖から水を引いて大規模に水田を開く、安積疎水(あさかそすい)を設計しました。
http://access11.seesaa.net/article/103826199.html
コルネリス・ファン・ドールン ウィキペディアWikipedia)より
コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn、1837年2月9日 - 1906年2月24日)はオランダの土木技術者で、明治時代のお雇い外国人。
約8年間にわたって日本で河川・港湾の整備計画を立て、オランダ人土木技師のリーダーを務めた。携わった事業には、大きな成果を上げた安積疏水や、全面的な失敗に終わった野蒜築港などさまざまな事例がある。

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街道をゆく〈35〉オランダ紀行』 司馬遼太郎/著 朝日新聞出版 2009年発行
ウナギの棲家(すみか) (一部抜粋しています)
北海の空が水蒸気で曇っている朝、オランダの東北地方というべきフリースラント(Friesland)に方向をとった。
その地をみたいのではなく、その手前にある海に築かれた大堤防を見たかったのである。
途中、平坦な田園がつづく。アムステルダムから60キロほど北上すると、デン・オエファー(Den Oever)という岬の村で陸地がなくなる。ただし、陸地がおわったわけではない。
「ここからですよ」
藤猛氏がいった。ここから30キロの大堤防が細長い陸地として出発しているのである。えんえんと海中にのび、はるかにフリースラントとつながっている。
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なにかレースがあるらしく、むこうから、スポーツ服を着た人が、自転車をこいでやってくる。堤防には、ジョギングをする人や自転車を漕ぐひとのための小径(こみち)もつけられている。
「この堤防は、第一次大戦の食糧難のころにつくられたそうですね」
と、私は資料を見ながらきいた。
「はい、着工は1920年だったそうです」
12年後に大堤防が完成するのだが、その時代には土木機械などはなく、レリーフにそうあるように、すべて人力による工事だった。
 人生ハ短キモ事業ハ長キコト、実二ふあん・どーるん君ニ於テ之ヲ見ル。
このことばは、大堤防をつくった20世紀のオランダ人のためにあるみたいだが、じつはそうではなく、19世紀、明治初年に日本にきて、有名な安積疎水(あさかそすい・福島県)をつくったオランダ人技師ファン・ドールン(C.J van Doorn 1837〜 1906)にささげられた日本人のことばである。
ファン・ドールンは明治5(1872)年、明治政府によって御雇(おやとい)外国人としてまねかれ、日本の国土の保安と殖産のための土木設計に力をつくした。
その代表作が安積疎水で、ドールンが引いた水はいまも多くの平野をうるおしており、昭和6(1931)年、その功を謝するために福島県猪苗代湖の北西岸に銅像がたてられた。その台座の碑文(竹越与三郎撰)の最初の1行が、前掲の文章である。
明治政府は、文明開化の導入のために、さまざまな分野において、高給でもって御雇外国人をまねいた。それぞれ、日本人の専門家と交代するのは明治10年代だが、それではかれらの活動ぬきでは、江戸文明から新文明への転換は考えられない。
土木の分野は、圧倒的にオランダ人が多く、まねかれた技師、技手の数は10人にのぼる。
ファン・ドールンは明治13(1880)年に帰蘭したが、かれと同様、日本に大きな業績をのこしたヨハネス・デ・レーケ(Johannes de Rijke 1842〜1913)は、明治6(1873)年、31歳で来日して以来、異例なことに29年も日本にいた。
日本全国の主要河川で、デ・レーケの工法や助言が加えられなかったところはないといっていいほどで、とくに石と粗朶(そだ)を組み合わせるオランダ式の”粗朶工法”は、その後も日本の河川土木につよい影響をあたえつづけている。
ファン・ドールンという人は牧師の子だった。そのせいでもないだろうが、生涯独身ですごし、アムステルダムで永眠した。