じじぃの「人の死にざま_1339_楠本・イネ」

  

楠本イネ ウィキペディアWikipedia)より
楠本 イネ(文政10年5月6日(1827年5月31日)- 明治36年1903年)8月26日)は、日本の医師。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。楠本は母親の楠本瀧の姓である。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。日独混血なのに“オランダおいね”の異名で呼ばれたのは、オランダ政府に雇用されていたシーボルト江戸幕府に対し、自分をオランダ人と偽っていたためである。
【生涯】
イネは、シーボルト門下の宇和島藩二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構え昔の門人やイネと交流し日本研究を続け、1861年文久元年)、幕府に招かれ外交顧問に就き江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

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『日本史の中の女性逸話事典. 歴史を彩った女性たち』 中江克己/著 東京堂出版 2000年発行
楠本いね――産科女医の第1号 (一部抜粋しています)
わが国で最初の産科女医は楠本(くすもと)いねである。シーボルトの娘といったほうが、わかりが早いかもしれない。シーボルト長崎県出島のオランダ商館付医師だが、楠本いねは文政10年(1827)、父シーボルトの外科室で生まれた。母は長崎丸山の遊女其扇(楠本たき)で、戸籍上は楠本新兵衛の長女となっている。
当時の日本は鎖国が実地され、オランダと中国だけに国交を開いていた。そのため、シーボルトはドイツ人だが、オランダ人と称して入国していた。楠本いねが「オランダおいね」とよばれるのもそれゆえのことである。
シーボルトは文政6年(1823)に来日し、長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾を開き、患者の治療をするかたわら、多くの日本青年に蘭学や医学を教えた。江戸に種痘所を開いた伊東玄朴、蘭学研究の尚歯会(しょうしかい)を組織した高野長英ら多くの逸材を世に送り出した。
ところが、文政12年(1829)、シーボルトは国外もち出し禁制の日本地図をもち帰ろうとして国外永久追放の憂き目を見た。いねが3歳のときである。
いねは生来、勉強好きで、オランダ語も理解できた。シーボルトが日本を去ったあと、門下のニ宮敬作、石井宗謙らのもとで成長し、歯科医になるための学問や、技術を学んだ。さらに、長崎養成所教師ポンペ、ボードイン、マンスフェルトらがオランダ医学を学び、近代医学を身につけた産科女医の第1号となった。
こうして23歳のとき、長崎で産科医を開業したのである。
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嘉永6年(1853)、27歳のとき、大村益次郎に出会う。当時、大村は蘭学の才が認められ、宇和島藩(愛知県宇和島市)に出仕していたが、いねは大村からも意欲的に学んだ。やがて大村が江戸で鳩居堂(きゅうきょどう)という私塾を開くと、いねも江戸へ出て、築地で産科医を開業した。
幕末動乱期を経た明治2年(1869)9月4日、大村は京都木屋町の宿で、数人の刺客に襲われて重傷を負う。大阪の病院へ運ばれたが、このとき、いねが不眠不休の看護を尽くした。しかし、そのかいもなく、11月5日、ついに大村は息を引き取った。
いねはその後、宮中の産科医などをつとめ、明治36年(1903)8月26日、東京麻布で、77歳の生涯を閉じた。死因は心臓麻痺だった。

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