じじぃの「歴史・思想_376_物語オランダの歴史・日蘭関係」

[Japan] Dr. Philipp Franz Balthasar von Siebold Tribute

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0YM6hNhePFs

杉田玄白訳 『解体新書 (Kaitai-shinsho)』 安永3年 (1774)

解体新書

本書の訳者は、 玄白の他に前野良沢中川淳庵・石川玄常・桂川甫周らであるが、 刊本に良沢の名は見られない。 本書刊行のいきさつについては、 玄白が晩年に記した 『蘭学事始』 に詳しく述べられている。
それによると、 明和8年 (1771) 3月、 江戸千住骨が原で行われた刑死人の解剖を見た玄白・良沢らが、 ドイツ人クルムス原著のオランダ語医書ターヘル・アナトミア』 と比較してその正確さに驚き、 同書の翻訳を志して3年半の言語に絶する辛苦ののち完成したのが本書で、 『解体新書』 と名づけて出版したものである。 その内容は、 第1冊が序図篇で内臓諸器官が図示され、 第2~4冊が解説篇で全文漢文で記述されている。
  本書は、 日本の医学に対して多大な貢献をしただけではなく、 広く蘭学の勃興を促すこととなった。 その意味で記念とすべき古典的翻訳書である。
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/kaitai.htm

『物語 オランダの歴史』

桜田美津夫/著 中公新書 2017年発行

オランダ人の海外進出と日本 より

最初の来航者――ディルク・ヘンッツソーン・ポンプ

日本人とオランダ人の最初の出会いといえば、1600年に豊後国(現大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号を思い受かべる人が多いだろう。しかし、実はそれ以前の1570年代と80年代に、ポルトガル船に乗って2度日本を訪れたオランダ人がいる。ディルク・ヘンッツソーン・ポンプ(1544~1604)という名の船員・旅行家である。
彼はホラント州北西部のエンクハイゼン市の生まれだが、親戚のいるリスボンで少年期を過ごし、アジア方面の交易に欠かせないポルトガル語をマスターする。1568年、つまりは母国で80年戦争(オランダ独立戦争)が始まったとされる年に、彼はまずインドのゴアに渡る。その後、さらに足を延ばして、最初の中国・日本旅行を行った。
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ファン・リンスホーテン(『東方案内記』の著者)の記述によれば、ディルク・ヘンッツソーンは、2度目の訪日の際、1585年夏から約8ヵ月間、長崎に滞在したという。

『解体新書』――前野良沢杉田玄白

しかし、18世紀の終わり頃になると、蘭学の広がりが顕著となる。江戸参府時のオランダ人またはオランダ通詞に教えを請(こ)うだけでなく、自ら蘭書や参考書をひもといて学ぶ人々が全国に現れたからである。
当初よりオランダ人は聖書などの宗教書を日本へ持参することは禁じられていた。だが、持ち込んでよい種類の書籍もあった。オランダ商館員やオランダ船の船長らに許された個人商売の輸入品には、辞書、地理学書、医学・薬学書、天文・航海書などの蘭書が含まれていて、それが徐々に幕府高官、オランダ通詞、藩医、その他の愛好家などの手に渡っていったのである。そのなかに『解体新書』の原著となったオランダ語版解剖学書も含まれていた。
1774年刊の『解体新書』を実質的に翻訳したのが、訳者として記載されていない前野良沢であることは、吉村昭歴史小説『冬の鷹』に描かれている通りである。杉田玄白は、仲間たちと訳出した下書きをその日の終わりに浄書(じょうしょ)するのが主たる責務だったらしい。
しかし、明治時代に福沢諭吉によって再評価され出版された『蘭学事始』という随想を、杉田玄白が1815年に書きあげて、困難な訳業の一端を後世に伝えたことは高く評価されねばならない。

商館長ドゥーフと医師シーボルト

ここで蘭学の隆盛に貢献した、商館長のヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)と、商館付き医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)にも触れておこう。
ドゥーフは、オランダ本国がフランスに併合され(1810~13)、ジャワ島がイギリスに占領されていた(1811~16)困難な時期に、1803年から17年まで商館長をつとめた。彼は、オランダ船の来航が途絶え、貿易業務が閑散となって余暇に恵まれたのを利用して、後から来るオランダ人のために日本語辞書の作成に着手する。
その初稿では、蘭文に対応する日本文に長崎方言の影響が強く出ており、Zy is zoo schoon als een engel(彼女は天使のように美しい)が、Ano onago wa soesamasikoe oetsikoesika つまり「あのおなごはすさまじく美しか」となっていた。しかも、ドゥーフが任期を終え長崎を去るまでに原稿は完成しなかった。その後、編集作業は通詞らによって続けられた。
1833年、ついに収録語数5万語、和紙で約3000枚の『ドゥーフ・ハルマ字書』が完成した。これが幕府の許可を得て1855年以降『和蘭辞彙』として出版される。
それに先立つ1823年、オランダ商館付き医者として来日したのがシーボルトである。現在のドイツのヴュルツブルグで生まれ、地元の大学で医学博士号を取得してからほどなく、生来の博学的好奇心を抑えることができず、オランダ政府に職を得て、バタファア経由で日本に到来した。最初そのオランダ語が疑われ、高地ドイツ人だからと弁明したところを通詞が「山オランダ人」と訳したことでうまく切り抜けることができた。
彼には特別な任務があったとされる。それは、日蘭貿易を再構築するために日本の総合的学術調査を行うことだったとも、バタファアの国立植物園やオランダの博物館から依頼されて日本の動植物の種子・生体・標本・剥製などを収集するとこだったとも言われる。
当初からシーボルトはオランダ商館の全面的支援を得て、長崎住民の診療や医術の伝授などと生き換えに破格の行動の自由を与えられた。長崎郊外の鳴る鳴滝熟(なるたきじゅく)――現在その跡地脇にはシーボルト記念館が建っている――で全国から集まった俊英に医術を教え、江戸幕府の機会をとらえて日本観察に務め、植物、鉱物、工芸品、地図などを貪欲に収集した。
1828年、一時的な離日に際して、彼による国禁の日本地図などの海外持ち出しが発覚し、多数の関係者が逮捕される。いわゆる「シーボルト事件」である。乗船予定のコルネーリス・デ・ハウトマン号の、荒天による偶然の座礁で積み荷の内容が発覚したというのがかつての通説だったが、いまでは、内部通報によって幕府が早くから目をひからせていたためと言われる。いずれにせよ、シーボルトと彼を取り巻く人々が、己の知識欲に任せて繰り広げた活発な知的交流が、幕府の許容限界を超えてしまった結果であった。
シーボルトは「永久」国外追放となっが、彼が滞在中に57名の門人を教育したこと、大学卒業したての20代後半の青年ながら、西欧の先進医療を、とくに実際に患者を診察しながら治療法を講義するという日本初の臨床講義によって伝授したことは、日本の蘭学、とくに蘭方医学の上に大きな影響を及ぼした。それは門人を介して全国に広まる。
一方でこのような知識の受け渡しが可能になったのは、すでにその頃、蘭学が国・地方を問わず相当程度に裾野(すその)を広げていた結果とも言えよう。全国から集まった門人たちは、オランダ語でレポートが書けるほどの語学力を身につけていた。シーボルトはちょうどよい時期に日本に来たのである。