じじぃの「人の死にざま_1395_水谷・豊文」

「水谷禽譜」 オウム図

24 本草学者 水谷豊文 あくがれあり
伊藤圭介の本草学の先生は、水谷豊文(ほうぶん)である。
豊文の父は尾張藩士水谷友之右衛門。その長男として安永8年(1789)に名古屋で生まれ、享和2年(1802)禄二百石、馬廻組家督を継いだ。同3年(1803)大番組、文政6年(1823)広敷詰となる。松平君山門下の本草家であった父の影響を受けて本草に志し、浅野春道次いで小野蘭山に師事、さらに尾張初の蘭方医といわれる野村立栄から蘭学をも修める。
のちに藩の薬園の監督を命ぜられ、御園町の自邸内にも植物園を作り、その種類は二千余に及んだといわれる。
一方、伊勢・近江・美濃・木曾などに採集旅行も行っている。門人に大河内存真・伊藤圭介兄弟をはじめ、吉雄常三・石黒済庵・大窪昌章・舎人重巨など多くの俊秀があり、江戸・京都・美濃などの諸大家とも交友が広く、尾張本草界の中心人物となった。
文政9年(1826)、江戸へ向かうシーボルトを熱田宮に迎え、自製の植物標本類を示した。これを機会に両者の間に交渉が始まり、シーボルトは豊文に対して高い評価を与えている。また、同志を集めて本草会を開き、相互の研究の場とした。「嘗百社」(しょうひゃくしゃ)と名付けられ、毎月例会を開き薬品会も開催した。(“嘗百”とは、古代中国の炎帝神農が百草を嘗めて薬効の能毒を知ったとの故事から名付けられたものである)「嘗百社」は、豊文の没後も伊藤圭介らにより続けられた。豊文は、天保4年(1833)に病死している。
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『当てはずれの面々―江戸から明治へ』 杉浦明平/著 岩波書店 1998年発行
水谷豊文―江戸博物学濫觴 (一部抜粋しています)
シーボルト(1796 - 1866)が文政9年(1826)オランダ商館長に随行して江戸参府に向かう途上、宮駅(名古屋市熱田)で会った名古屋の本草学者のうち伊藤圭介(1803 - 1901)についてはかなりよく知られているが、他の人のことはシーボルト『江戸参府紀行』に何回も目を通したはずのわたしもはっきりした記憶がなく、水谷豊文(ほうぶん)といわれても伊藤圭介と関係がある本草学者の1人だったかなあとしか思い出せなかった。が、シーボルトの参府紀行、吉川芳秋『尾張科学史攷』、杉本勲『伊藤圭介』を読み返したり日本生物学史の類をひもといてみると、水谷豊文は日本近代の植物学・生物学の礎を置いた伊藤圭介とその兄大河内存真の偉大な先生で、2人とも豊文の指導の下にそれぞれの学問を進めていったことを再認識する。
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豊文は若いころ名古屋で医学を修業したのち、ひそかに京都に上って小野蘭山塾に入門、蘭山(1729 - 1810)から本草学を研鑽しただけでなく、名古屋地方で最初の蘭方医野村立栄(1751 - 1828)から蘭学の手ほどきをうけていた。新しい博物学の世界をひらくために、この蘭学がいかに大きく役立ったことだろう。この点ではその時代の名古屋人としては驚くべき先見の明をもっていた。というものの、その知識欲をさらに激しく燃え上がらせて泰西文明全体の把握まで拡げようとした痕には乏しい。ここが尾張学界の限界というべきかもしれない。
水谷家は御園町にあったというから、名古屋城の外濠からそれほど距たっていない今の御園座のあたりということになる。がそれはともかく、豊文が宮でシーボルトを誘ったように草木2000余種が植えてあるというからには、相当広い屋敷を与えられていたにちがいない。というのは、豊文は、中層の藩士として少年時代から槍、組み打ち(格闘)、兵法、馬術、弓術、砲術、居合術の稽古に励み、その中でも組み打ち業では賞詞を賜わったほど上達したそうだが、その一方で、画、茶湯、しちりきから鼓、書道まで尾張藩士としての身だしなみにかけても広かった。そして父友右衛門が隠居すると23歳で家督を相続したが、藩当局は彼の本草学の知識と関心の深さを買って、間もなく薬草園関係を命じて、終生その職を解くことがなかったし、20余種の草木を栽植するだけの庭を持つことも許された。
お蔭で豊文は、自分の勤めと好みと一致した生涯を送ることができたのである。
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豊文の著作は、公刊されたのは『物品識名』1種だけで、他は未刊原稿またはその写しのままであった。約1万種の植物について記載した『本草網目紀聞』60冊のほかに、鳥類503種の美麗なる彩色図譜『水谷禽譜』8冊、『虫譜』小本5冊その他、海魚類84種の着色『勢海魚譜』等々がある。かれの本草学はけっして植物だけに限られず、文字どおり博物学だったといってよかろう。