じじぃの「人の死にざま_491_大村・益」

大村益次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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花神・第1話オ−プニング.m4v 動画 YouTube
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大村益次郎 動画 YouTube
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大村益次郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
大村益次郎は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の1人。
長州征討と戊辰戦争長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。
【生涯】
周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓、の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学しその後帰阪、適塾の塾頭まで進む。
文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周福澤諭吉大鳥圭介といった蘭学者や旧友とも付き合いがあった。
高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。「大村」は故郷の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の一字をそれぞれとっている。
このころ大村は精力的に明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に彼の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここでは大村はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。
慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り大村、高杉、伊藤博文井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日大村は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが、5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され、名実共に藩士となる。
明治2年(1869年)6月2日戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の幹部となった。
当時の兵部卿兵部省の最高官)は仁和寺宮嘉彰親王であり、名目上だけの存在であった。大村は事実上、日本陸軍の建設を指導することになる。
大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら八人の刺客に襲われる。
10月27日手術を受けるも翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜死去した。
大村死去の報を受けた木戸は「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」(11月12日の日記)「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」(槙村正直宛の12月3日付の書)とその無念さを述べている。
花神 (NHK大河ドラマ)】
花神』(かしん)は、NHKで1977年1月2日から12月25日に放送された15作目の大河ドラマ。周防の村医者から倒幕司令官に、明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者大村益次郎を中心に、松下村塾の吉田松蔭や奇兵隊高杉晋作といった、維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇。
小説『花神』は司馬遼太郎の作品。

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文藝春秋 10月号 (2009年)
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利茨城大学准教授 磯田道史東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
知謀のひと (一部抜粋しています)
半藤 では、いよいよ『坂の上の雲』に入りましょうか。司馬作品で、もっとも参謀が活躍する作品が『坂の上の雲』ですね。海軍では秋山真之、島村速雄、加藤雄一郎、陸軍では児玉源太郎といった綺羅星のごときスターたちがそろい踏みします。
磯田 その前に、明治の軍隊をほとんど1人で近代化させたといっていい大村益次郎について少しだけ。ときどき歴史には、「この人がいなければ」という取替えのきかない人物があらわれます。司馬さんはそういう人物をピックアップするのに長けている。なかでも大村益次郎は、軍事といえば侍の専売特許だった時代にいきなり現れ、数学的な正確さで軍事作戦を立て、長州四境戦争、戊辰戦争を勝利に導いた。こういう人材は生まれるものであって育てることができません。見出すことしかできない。
山内 たしかに大村益次郎の生涯をみると、全く思いがけないタイミングであらわれていますね。一介の村医者として生涯を終えるはずだった村田蔵六蘭学を学び、いつのまにか西洋軍学にも精通してしまうわけですから。それが大村益次郎と名もかわり長州軍の実践指揮官となって兵部大輔(軍事大臣)として近代軍隊としての兵制を整える。こんなことは平時では起こり得ません。取替えのきかない才能として、もう1人、有坂成章も加えましょう。有坂砲と三十年式歩兵銃を開発し、横須賀に据えられていた十八サンチ榴弾砲を旅順の陸戦に投入するよう進言した有坂がいなかったら、はたしてあの戦勝を得ることができたかどうか。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
大村益次郎(おおむらますじろう) (1824-1869) 46歳で死亡 (一部抜粋しています)
明治2年8月、大阪に兵学校を創立するために西下した兵部大輔大村益次郎は、宿を京都三条木屋町の旅宿にとり、以来連日、巡閲や視察に励精した。
しかるに9月4日の夕闇どき、旅館に訪ねて来た2人の男が、大村の若党が取次ぎのため奥にはいったのについて白刃をふるって突入した。
大村は奥の四帖半の一室で関係役人や軍人3人と要談中であったが、一瞬行燈(あんどん)が消え、薄闇の中で格闘となり、狭い部屋で抜刀も叶わず、たちまち乱刃の下に置かれた。
その中で、裏の東鴨川の河原へ逃げ出した兵学教授安達幸之助は、ここにも待ち受けていた襲撃者の一味に斬殺されたが、これが一見大村に身体つきが似ていたため、暗殺者たちもお互いに同志討ちするほどに昂奮状態にあったこともあって、「しとめた、しとめた」と、さけびながら一同は逃走した。彼らは合計8人であった。
しかし大村は、乱闘にまぎれて、風呂場へ逃れて、風呂桶にはいり、ふたをしめてひそかにひそんでいた。彼は前額部、左こめかみ、腕2ヵ所、手指、右ひざなどに傷を受けていた。
犯人はちの動機は、大村が兵制その他に西洋化を推進することに対しての憤激で、彼らはすべてその年のうちに逮捕され、斬刑に処せられた。
大村は、7日、京の長州屋敷に移され、いったん治療に向かうと見えたが、ときあたかも晩夏の暑熱がなお残る季節でもあり、膝の一傷が化膿を起し、20日には大阪からポルトガル医のボードウィンがら来診し、手術の必要があるから大阪の病院に来たほうがよいと勧めたが、許可がなかなか下りなかった。10月1日、ようやく許可が下り、下阪、大阪病院に入院し、27日、ボードウィン執刀の下に右下肢を切断した。
この手術も、その可否についての役人たちの評議のために遅れに遅れて、ついに手遅れになったのである。11月5日午後7時、敗血症のためについに大村は絶命した。
「君のため捨つる生命は惜しからで たた思わるる国の行末(ゆくすえ)」
しかしこれは彼の歌ではなく、前に長州で自刃した長井雅楽の辞世であった。西郷さえも翻弄した不敵な大村は、他人の歌をもっておのれの辞世としたのである。
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しかし大村は、辞世などどうだっていい、と考えていたのかもしれない。

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大村益次郎 Google 検索
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