じじぃの「歴史・思想_646_近代史の教訓・吉田松陰」

松下村塾世界遺産)【公式】松陰神社

山口県萩市鎮座 明治維新胎動之地
長州藩の藩校「明倫館」の師範を務めた吉田松陰先生が教えた松下村塾
塾舎は今も松陰神社境内に現存しており、平成27年(2015)には世界遺産となりました。
伊藤博文など明治維新を成し遂げた偉人たちが学んだ私塾です。

松下村塾で志士を育てる
安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、獄内に引き続いて『孟子』の講義をはじめます。
これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎としました。これが現在も松陰神社境内に保存される松下村塾です。塾を主宰した松陰先生は数多くの人材を育て、その塾生達は明治維新を成し遂げる原動力となりました。
https://showin-jinja.or.jp/about/syokasonjuku/

『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第2章 吉田松陰――この国の未来を守るための戦略 より

近代日本をつくった人

歴史を見るときに大切なことは、前にもいったように、いわゆる「結節の時代」をよく知ることです。ではそれは、具体的にどんな時代なのでしょうか。大人物が次々と輩出される時代、それこそが「結節の時代」なのです。まさに時代が人物をつくるからです。
日本を知る上で最後に重要な「結節の時代」は、いうまでもなく幕末維新でしょう。日本が欧米列強の強い圧力にさらされ、大きくもまれつつ、新しい時代を懸命に模索した激動期です。これは聖徳太子の時代や楠木正成の時代と並ぶ、紛れもない日本史の一大「結節点」です。

その「結節点」において、吉田松陰ほど重要な存在はいません。

それは、この国を動かす根本の力が「モノ」ではなく心、すなわち教育によってつくられる「人間」とその「こころ」にこそあることを、劇的に示した人物だからです。
松陰が萩の松下村塾において教育に携わったのはほんの数年にすぎず、しかも松陰自身は明治維新(1868)の9年も前に30歳(数え年)という若さで亡くなっています。しかし、彼の村塾からは高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文山県有朋品川弥二郎山田顕義といった錚々たる若き志士たちが育ちました。そして彼らがそののち、わずか数年で幕府を倒し、新しい近代国家・日本を築き上げていったのです。その意味では松陰こそ、「近代日本」をつくった人といえるのではないでしょうか。

ここで重要な点は、松陰が、彼の生まれる少し前の、ちょうど彼にとっての「師」にあたる世代の問題意識を引き継ぎ、それを噛み砕いて、さらに次の世代に渡す役割を果たした人だったことです。それだけに、松陰について考える際には彼の「師」にあたる世代がどんな時代を生き、日本にすでにどんな新しい時代精神や思想の流れが生まれていたのかを知ることが大切です。吉田松陰といえども、突然世に現れた絶世の思想家ではなかったからです。

兵学者・松陰」という視点

天保年間の最初の年、つまり1830年に生まれた松陰が、天保11年(1840)、わずか11歳で藩主の前で兵法について講義するほどの天才少年だったことは有名ですが、同じ頃、「アヘン戦争始まる」の報にも接しています。そして兵学者であったからこそ、彼は誰よりも、この身近に迫った「西洋の脅威」を重く受け止めました。
兵学就業時代の前期において、松陰は、家学の山鹿流以外にも積極的に他流の兵学を学び、とくに長沼流の山田亦助(またすけ、1809年生まれ)に入門して西洋陣法や海防兵制について教わったことは、大きな刺激になりました。亦助は、近頃、西洋列強が東洋をしきりに侵略し、さらに琉球や長崎までその矛先を伸ばしてきているので、防御策を講じることが急務だと、繰り返し松陰に説いたのです。
そして修行時代の後期には、藩の外に出て、諸藩の士や思想家たちと交流し、とくに西洋の科学技術や時勢に対する見識について熱心に学ぶことになります。松陰が「当今の豪傑、都下(江戸第1の)1人」と称した佐久間象山(1811年生まれ)に師事したのもこの頃でした。

最終的に達した結論とは

「自分が日本の国の存立を担わなければならない」という「明確なボランティア意識」に燃えた兵学者、つまり「国防問題の研究者」としての松陰が立てた国家戦略は、「尊王攘夷」です。
ここで大切なのは、彼のスローガンでもある尊王攘夷が、世上思われているところの「日本は神の国であり、どんな夷狄(いてき)も入れてはいけない」というのとはまったく違うということです。それは、松陰の次の言葉が示しています。

  「初めに勤皇ありての攘夷にあらず。攘夷なるがゆえに勤皇たらざるべからず」

すなわち、あくまで攘夷(日本の独立主権の擁護)を行なうための勤皇(尊王)なのであり、最初に尊王という絶対的立場があるのではない。攘夷、今の言葉でいうならば国防対策、安全保障のための「国家戦略」としての尊王である、ということなのです。
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松陰が『古事記』『日本書紀』を持ち出して日本の国体(独自な国のあり方)を強調するのに対し、朱子学者で長州の藩校・明倫館の元学頭であった山県大華(1781年生まれで、松陰よりも50歳も年長)はそんな日本中心の考えは不合理だ、もっと国際的な視野(つまり朱子学的な中華中心の世界観に基づく中国中心史観)に立った「普遍的名考え方」をすべきだ、としてそれを退けます。
また、松陰が時の幕府が西洋列強の武力に屈したかたちで開国を進めていることを嘆くのに対し、大華はそうした西洋のやり口は無礼だが、日本側に対抗できる「手段がない以上、深く怒るべきではなく、「許容するより仕方があるまい」と、無責任にもいってのけたのです。
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そして、最終的に彼が達した結論は、この国の未来を守るためには、一見、最も「疎遠」と思われるものでした。
松陰は、既存の社会の枠組みにとらわれない若者たちを集めて「教育」し、彼ら少数の自覚的分子が、「合理主義に基づいた決死の行動」を起こすこととにより――これらを松陰は「草莽崛起(そうもうくっき)」といいました――必ずや広範な人々がともに立ち上がり、新しい時代を迎えることができるはずだと信じたのです。

こうして安政4年(1857)、ここに松下村塾が誕生しました。

そして、松陰の精神に感化された若者たちが、松陰の予見したとおり、大きな展望と爆発的な行動力を発揮して一気に明治維新へと突き進んでいったことは、本庄の冒頭に述べたとおりです。

  「西洋のモノではなく、日本人の知力と『こころ』にこの国の未来を託す。そのためには若者の教育しかない」

幕末動乱の時代に、この一点を読み違えなかったところにこそ、私は兵学者、つまり時代を見据えた国家戦略家にして偉大な教育者・吉田松陰の真骨頂を見る思いがします。「戦略」の根本は「精神」にあり、この一点が立てば、その2つは、深く1つのものに凝集するということです。
近代国家とその方法、つまり戦略を考える立場の人間は、どれほど物事を深く考え、同時にそれがその人たちの使命感や生き方とどれほど深く結びついているか」ということです。それによって国の運命が決まってくるのです。
その意味でも、いま「これからの日本」という大きな国家戦略を考える際、「日本人のこころ」を失ってしまえばこの国は滅びる。何をおいてもこれを「再生」しなければならない。という深い使命感と結びついた松陰の戦略的思考を、われわれは思い起こす必要があるのかもしれません。