じじぃの「人の死にざま_819_佐野・常民」

佐野常民 - あのひと検索 SPYSEE
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筑後川河口、佐野常民記念館、佐賀藩三重津海軍所跡・佐賀市 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=RV8ufrlsJEo
日本赤十字社 東日本大震災 〜被災地での40日間〜 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_Zp0-wv5C00&feature=related
佐野常民 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
佐野常民は、日本の武士・佐賀藩士。明治期には元老院議官となる。日本赤十字社創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿。勲等は勲一等。爵位は伯爵。称号は日本赤十字社名誉社員。佐賀の七賢人に挙げられている。名は栄寿、栄寿左衛門。子は佐野常羽。
プロジェクトJAPAN 「赤十字の精神を日本にもたらした 佐野 常民」 動画 NHK
佐賀藩佐野常民は幅広く学問を修め、藩の軍備増強や近代技術習得に力を注ぎ、幕末の日本で最大の海軍力を育てた。1867年、パリ万博が開催されると、佐賀藩代表団を率いて渡欧。万博会場で赤十字の展示に出会い、感銘を受ける。帰国後、西南戦争が起きると、日本でも赤十字の活動をしようと政府に請願するも、「敵味方なく傷病兵を助ける」理念が理解されず却下。そこで戦地に赴いて政府軍首脳に直訴し、はじめて博愛社の設立が認められた。
http://cgi4.nhk.or.jp/japan/moviegreatpersons/index.cgi?das_id=D0003200019_00000
『幕末明治の肖像写真』 石黒敬章/著 角川学芸出版 2009年発行
日本赤十字社の初代社長 (一部抜粋しています)
佐野常民(さのつねたみ、1823年 - 1902年) 79歳で死亡。
佐賀藩士下村家の5男として生まれるが、天保3年(1832)親戚の藩医佐野常微の養子となる。藩校弘道館、大阪適塾などで学ぶ。嘉永6年(1853)佐賀藩精錬方の主任となり、文久3年(1863)田中久重や石黒寛次らと日本最初の蒸気船凌風丸をつくる。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会出品のため渡欧。翌年帰国。明治3年(1871)兵部少丞として臣政府に出仕。5年博覧会御用掛兼務、6年イタリアおよびオーストリア弁理公使、博覧会服総債としてウィーンの万国博覧会に参加。8年元老院議官。
ウィーン万博で赤十字の理念を知り、10年の西南戦争では博愛社を設立し、敵味方の区別なく負傷兵を治療した。
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博愛社は30年に日本赤十字社と改称、佐野は初代社長に就任した。

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