じじぃの「オリンピックも金メダルも万博が産みの親?万博発明発見50の物語」

Exposition Universelle de Paris 1889 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=RnVb9JT7_mk
L'exposition universelle de 1900 a Paris 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=G3EIH0Msn-o
第2回パリ オリンピック(1900年) 綱引
http://www.tugofwar.jp/jpg/olympic4.jpg
五輪メダル予想 小倉がデイリーに挑戦状 (追加) 2012年7月20日 デイリースポーツ online
小倉が五輪特集コーナーの中で、日本の金メダルの数を「レスリング最低3つ、柔道最低3つ、水泳最低3つ、体操最低4つ」と、少なくとも13個は獲得すると予想。小倉の思いを代弁する形で、笠井アナが「デイリースポーツの皆さん、見ていますでしょうか。これが『とくダネ!』の公式見解です!」と“バトル”のゴングを鳴らした。
http://www.daily.co.jp/olympic/2012/07/20/0005227821.shtml
内村の「金」、ボルトより人気…英で賭け熱気 ロンドン五輪2012 2012年7月12日 YOMIURI ONLINE
なでしこジャパンの金メダル配当倍率は5.50倍――。あらゆることを賭けの対象にする英国政府公認の賭け業者「ブックメーカー」がロンドン五輪の各競技で予想配当を出している。地元開催となった今大会は、これまでになく、ファンの予想が熱気を帯びている。
別の大手ブックメーカー「ピナクルスポーツ」の現時点の配当倍率は、金メダルの期待が大きい体操男子個人総合の内村航平選手が1.318倍。陸上男子100メートルの世界記録保持者ウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の1.820倍よりも期待が高い。
http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/news/topic/1/20120711-OYT1T00812.htm
パリ万国博覧会 (1867年) ウィキペディアWikipedia)より
1867年のパリ万国博覧会は、1867年4月1日から11月3日までフランスのパリで開催された国際博覧会である。42ヶ国が参加し、会期中1500万人が来場した。
【概要】
パリで開催された国際博覧会では2回目となる。日本が初めて参加した国際博覧会であり、江戸幕府薩摩藩佐賀藩がそれぞれ出展した。幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿清水家当主の徳川昭武薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣された。
薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成した。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となった。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章制作を開始したが、結局幕府は倒れ、幻となった。
パリ万国博覧会 (1889年) ウィキペディアWikipedia)より
1889年のパリ万国博覧会は、1889年5月6日から10月31日までフランスのパリで開催された国際博覧会である。
【概要】
フランス革命の発端とされるバスティーユ襲撃100周年となる年に開催された。この博覧会にあわせてエッフェル塔が建設され、後にパリのシンボルとなった。パリで開催された国際博覧会では4回目となる。
1889年のパリ万博の会場総面積は0.96km2で、シャン・ド・マルス公園、トロカデロ広場、ケドルセー地区が会場となった。会場周辺の交通はドコーヴィルによる路線長3kmの600mmゲージ鉄道が部分的に運行された。
パリ万国博覧会 (1900年) ウィキペディアWikipedia)より
1900年のパリ万国博覧会は、1900年4月15日から11月5日まで、フランスのパリで開催された国際博覧会である。
【概要】
19世紀最後の年を飾る国際博覧会であるが、新世紀の幕開けを祝う意味も込められており、過去最大のおよそ4700万人が入場した。また、パリオリンピック(第2回近代オリンピック)に合わせての開催でもある。1855年以後、パリで開催された国際博覧会では5回目となる。前回のパリ万博に引き続きくじ付き前売入場券を販売し、開催予算1億フランの6割をまかなった。
夏目漱石はロンドン留学の途上、この万博会場を訪問している。
近代オリンピック ウィキペディアWikipedia)より
近代オリンピックとは、4年に1度国際オリンピック委員会 (英: IOC) が開催する、世界的なスポーツ大会である。
古代ギリシアオリンピアの祭典をもとに開催する事を19世紀末にソルボンヌ大における会議でフランスのクーベルタン男爵によって提唱、決議された。
【日本との関わり】
日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム夏季大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、1928年アムステルダム大会からは女子選手も参加した。
なお、このストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦と、マラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。

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『「万博」発明発見 50の物語』 久島伸昭/著 講談社 2004年発行
オリンピックも金メダルも万博が産みの親? (一部抜粋しています)
「万博業界」の中では、「近代オリンピックは万博から生まれた」というのはほぼ常識、といったら皆さんは驚かれるであろうか。
万博の中で第1回近代オリンピックはおこなわれなかった、という意味では、正確には万博から生まれた、ということにはならない。しかし、その産まれた過程でいうと、この「近代オリンピックは万博から生まれた」という表現もあながち間違いとはいえないのである。
近代オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタン(1863〜1937)は1863年の1月1日、フランス貴族として生まれた。そのクーベルタンが「師」と仰(あお)いだ人物が、1855年の第1回および1867年の第2回パリ万博の委員長を務めたフレデリック・ル・プレであった。フレデリック・ル・プレは。社会を科学的、実証的にとらえるサン・シモン主義者で、労働者を具体的な事物に沿いながら教育していくことの重要性を提唱していた。そんなル・プレが、万物の最先端の展示ともいえる万博の重要な推進者だったのは自然なことで、第1回、第2回パリ万博の重要な目的は、労働者の教育でもあった。そしてクーベルタンも、ル・プレの教えのもと、万博に関心を持ち始める。
クーベルタンが体験した初めての万博は、1878年、15歳のときの第3回パリ万博だった。そしてその11年後、1889年の第4回パリ万博で、クーベルタンは国際会議を開催する。
フランス革命100周年を記念する第4回パリ万博では「思想の万博」にしようという目的で、芸術、化学、経済などさまざまなテーマで69もの国際会議が開かれた。有名な細菌学者、ルイ・パストゥールも国際会議の調整委員会委員長を務めたほどであり、万博における公式の国際会議はこの万博で存在感を大きくしたのであるが、クーベルタンの会議も、そのとき開かれたものの1つであった。
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クーベルタンはシカゴ万博の翌年、1894年6月にパリで開かれた国際スポーツ会議で、オリンピック復興を満場一致で可決させ、13ヵ国から選ばれた15人をメンバーとして、国際オリンピック委員会を創立した。そのとき、もともとは第1回近代オリンピックを1900年のパリ万博で開催するという話だったが、6年も待つのは長すぎるという議論が起こり、最終的には、1896年ギリシャアテネで第1回近代オリンピックを開催するということに決まったのである。
第1回近代オリンピックがアテネで成功裏に終わり、その4年後、第2回オリンピックは1900年パリ万博での行事の1つとして開催される。このときはまだ、参加20ヵ国の小ぢんまりした大会だった。優勝者にはタイピンとペンシル「自分で」メダルを買うための100フランが与えられただけであったという。もちろん、実際にその100フランでメダルを買う人はほとんどいなかったという話だが……。
その後、オリンピックは、1904年のセントルイス万博、1908年のロンドンで開かれた仏英博覧会と一緒に開催されるが、オリンピックを万博の付属イベントとして開催することで運営面などでの弊害があらわになり、第5回ストックホルム大会以降は万博を離れ、独自の道を進むことになる。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、『「万博」発明発見 50の物語』という本を見ていたら、「オリンピックも金メダルも万博が産みの親?」というのがあった。
「もともとは第1回近代オリンピックを1900年のパリ万博で開催するという話だったが、6年も待つのは長すぎるという議論が起こり、最終的には、1896年ギリシャアテネで第1回近代オリンピックを開催するということに決まったのである。第1回近代オリンピックがアテネで成功裏に終わり、その4年後、第2回オリンピックは1900年パリ万博での行事の1つとして開催される」
ふう〜ん。オリンピックは万博の行事の1つだったのか。万博はオリンピックの産みの親なんだ。1900年第2回オリンピックのパリ夏季大会は万博の付属大会として行われたため、会期が5ヵ月にもなったらしい。この大会では「綱引」なんかも行われている。
日本が万博に始めて参加したのは、1867年の第2回パリ万博だ。日本は江戸幕府薩摩藩佐賀藩がそれぞれ別に出展した。1889年の第4回パリ万博ではエッフェル塔が建設され、後にパリのシンボルとなった。1900年の第5回パリ万博では夏目漱石はロンドン留学の途上、この万博会場を訪問している。
やたらと、パリ万博が多い。
「第5回ストックホルム大会以降は万博を離れ、独自の道を進むことになる」
日本がオリンピックに初めて参加したのは、1912年(明治45年・大正元年)に開催された第5回ストックホルム夏季大会だった。このストックホルム大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、男子陸上の選手として短距離の三島弥彦選手と、マラソン選手の金栗四三選手が参加した。金栗選手はマラソンの途中で行方不明になり、その後1967年に無事完走し終えた。タイム54年8ヵ月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。
日本人選手がオリンピックでメダルを最初に取ったのは1920年大正9年)の第7回アントワープ夏季大会だった。テニスの男子シングルスで熊谷一弥選手が銀メダルを、熊谷と柏尾誠一選手が組んだダブルスで銀メダルを獲得した。テニスは、次の年の第8回パリ大会を最後に種目から消えた。、だが、1988年のソウル大会からトッププレーヤーが参加できるトーナメントとして復活を果たした。
日本人選手がオリンピックで金メダルを最初に取ったのは1928年(昭和3年)のオランダのアムステルダムで行われた夏季オリンピックだった。陸上男子三段跳織田幹雄選手が、競泳男子200m平泳ぎで鶴田義行選手が金メダルを獲得した。陸上女子800mで人見絹枝選手が銀メダルを獲得した。
1964年(昭和39年)には日本の東京で第18回夏季オリンピックが開催され、29個のメダル(金16、銀5、銅8)を獲得した。
以上、じじぃの万博とオリンピックに関するうんちくでした。
追記
フジテレビ『とくダネ!』のキャスター・小倉智昭さんがロンドン五輪日本代表について「金メダルは最低13個」とした。
暇なじじぃ、こんなのも楽しみにロンドン五輪を観るか。