じじぃの「人の死にざま_1429_鍋島・直正」

鍋島直正

  

鍋島直正 ウィキペディアWikipedia)より
鍋島 直正(なべしま なおまさ)は、江戸時代末期の大名。第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘。正室徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。
【経歴】
鳥羽・伏見の戦いの時に上京中で藩主も家老も京都に不在だったため、薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がったが、薩長薩摩藩長州藩)側が勝利に終わって以降は上京した佐賀藩も新政府軍に加わり、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。
明治政府が近代化を推し進める上で、直正が育てた人材の活躍は大きく(佐賀の七賢人と田中久重の項も参照の事)、直正自身も議定に就任する。これらにより、討幕運動には不熱心であった佐賀藩であったが、薩長土肥の一角を担う事となった。明治元年(1868年)に直正と改名。

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『学校では教えてくれない日本史の授業』 井沢元彦/著 PHP文庫 2013年発行
明治維新は一足先に佐賀で達成された
 (一部抜粋しています)
事の起こりは、黒船が浦賀にやってくる45年前に起きたフェートン号事件でした。
先ほど、事件の起きた長崎は幕府の直轄地だというお話をしました。その長崎のトップが長崎奉行で、長崎奉行は幕府から派遣されます。とはいえ、長崎のことはすべて幕府が直接人材を派遣していたわけではありません。長崎湾の警備などは地元の藩に委託されていました。その委託を受けていたのが肥前でした。
肥前国というのは、現在の地名で言うと佐賀県長崎県を合わせたあたりで、当時は佐賀藩と言われました。当時の佐賀藩の藩主は第9代鍋島斉直、彼は事件後、幕府にさんざんなじられます。「お前たちはいったい何をしていたんだ。フェートン号1隻ごときを取り逃がした上に、長崎奉行切腹にまで追い込むとは、お前らは武士の資格などない」というわけです。
でも、これは理不尽な叱責(しっせき)です。なぜなら、もともと幕府は武器の改良を禁じていた上に、地方の諸藩が軍備を整えるとすぐに「謀反の兆しあり」と言って藩を取りつぶすということをさんざんやってきていたのです。そんな状態の佐賀藩に、フェートン号を捕まえろと言うこと自体がそもそも無理な話だからです。
理不尽な幕府の叱責を受ける父を見てきた斉直の子・直正は、幕府に強い怒りを感じていました。そこで、父が隠居し、自分が藩主の座に受け継ぐと藩の改革に乗り出します。
その改革の1つとして、彼は長崎が近いのを幸いに、半の若手を片っ端から留学生として長崎に送り込み、西洋の進んだ科学技術をオランダ人から学ばせたのです。その結果、佐賀藩は国内でいち早く反射炉溶鉱炉)の建設にこぎ着けます。
もう1つ、佐賀藩がこの時期に行った画期的な改革は、藩校の解放でした。
普通、どこの藩でも藩校で学ぶことができたのは藩士のなかでも身分の高い藩士の子弟だけでした。それを佐賀藩では身分の上下に関係なく、優秀であればどんな身分の低い下士であっても藩校で学ぶことができるようにしたのです。
その結果、佐賀藩の科学水準はみるみる上がり、最終的にはアームストロング砲を始めとする西洋式の最新武器や蒸気機関、蒸気船の国産にも成功します。こうした佐賀藩の躍進を、作家の司馬遼太郎さんは、「明治維新は一足先に佐賀で達成された」と語っています。