じじぃの「人の死にざま_898_山田・方谷」

山田方谷 - あのひと検索 SPYSEE
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備中の聖人 山田方谷【岡山の歴史と文化】 動画 YouTube
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「おかやま 物語のみち」-「山田方谷物語」
http://www.pref.okayama.jp/doboku/doken/monogatarinomichi/houkoku/yamada_top.htm
山田方谷 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山田方谷(1805年3月21日(文化2年2月21日) - 1877年(明治10年)6月26日)は、幕末期の儒家陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。
松山藩の藩政改革】
方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。
1.藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済している)。
2.大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
3.家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。
4.多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
5.領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。他藩の専売制とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。

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『本物に学ぶ生き方』 小野晋也/著 致知出版 2009年発行
雲中の飛竜が行った財政再建 山田方谷(やまだほうこく) (一部抜粋しています)
幕末期の備中松山藩(現岡山県高梁市)は10万両という大変な借財を抱えていました。それに対して藩の税収は、石高は5万石と称していましたが、実際は2万石弱しかないという状況でした。したがって、年々、その借金は膨らみ続けていたのです。
この窮状を救ったのが山田方谷です。彼はわずか8年で借金を返済したのみならず、さらに10万両の蓄積を生み出したのです。古今東西の財政家の中で最も優れた財政家とも言えるでしょう。
その方谷は、備中松山藩内の農業と菜種油の製造販売を行う家に生まれ、小さい頃から神童と呼ばれていました。5歳で隣藩の新見藩の儒学者、丸山松陰の塾に入り、9歳のとき、その塾を訪ねたお客から、「何のために勉強しているのか」と聞かれ、「治国平天下のため」と答えたというエピソードが残っています。子どもの頃から非常に英明で、また、非常に毅然とした生き方をしていたのです。
14歳で母を、15歳で父を亡くし、家業を継ぎながら学問をし、21歳で藩校の有終館への出入りを許され、その後士分に取り立てられ、有終館の会頭になります。
その後、江戸へ遊学し、幕府の昌平坂学問所の塾頭である佐藤一斉の門下生となります。当時の官学は朱子学でしたが、時代の変化に対応できなくなってきた面があり、佐藤一斉は教育の中に陽明学の要素を盛り込んでいました。方谷と同門に佐久間象山がいました。2一はよく激論を戦われ、方谷が象山をやりこめていたようです。
32歳で備中松山に戻り、有終館の学頭にあり、その後、板倉家の養嗣子(ようしし)となった勝清の家庭教師のような仕事をし、その勝清が藩主になった後、45歳のときに元締役兼吟味役を拝命します。今でいう財務大臣です。以後8年間この職にあり、また、50歳のときには総理大臣に匹敵する参政も兼務し、果断に藩政改革を行ない、貧乏藩を豊かな藩に変えていくのです。
板倉勝清は、方谷によって豊かになった財力を背景に幕府の要職を務め、徳川幕府最後の筆頭老中となります。方谷は藩主の顧問としていろいろな仕事に取り組み、大政奉還の上奏書の原案を書いたのは方谷だともいわれています。明治になってからは教育一筋の生活を送り、明治10(1877)年、73歳でこの世を去ります。
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方谷は領民から「雲中の飛竜」と呼ばれていました。「雲中の飛竜」とは雲の中にいる竜です。
私たちが見上げる空に大きな雲があり、その中に竜がいます。雲の中なので普段は見えません。いるのかいないのかわかりませんし、どこにいるのかもわかりません。しかし、何か問題が起きるとその竜が雲の中からたちどころに現れるのです。備中松山藩の民にとって方谷は、その「雲中の飛竜」だったのです。
「困った、助けて」と備中松山藩の民が言うと、方谷がやって来て、たちどころにその問題を解決して、すぐに雲の中に戻っていってしまう。そのように評価されていました。領民たちは方谷に頼れば救ってくれると思っていたのでしょう。

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