じじぃの「人の死にざま_1436_秋山・好古」

坂の上の雲 次回予告集 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=WlJGFYvJwac

登場人物/スペシャルドラマ 「坂の上の雲 2014年10月5日 NHK松山放送局
秋山真之・・・本木雅弘 海軍軍人。日露戦争では、作戦参謀として日本海海戦の作戦を立案
秋山好古・・・阿部 寛  陸軍軍人。真之の兄。日露戦争では騎兵第一旅団長としてコサック師団と互角に戦い、後に「日本騎兵の父」と称される。
http://www.nhk.or.jp/matsuyama/sakanoue/cast/
秋山好古 ウィキペディアWikipedia)より
秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日(1859年2月9日)- 昭和5年(1930年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。幼名は信三郎。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた。
日本海海戦で先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之実弟にあたる。
司馬遼太郎坂の上の雲』(文春文庫) 主人公の一人。

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『ぶらり日本史散策』 半藤一利/著 文春文庫 2010年発行
古き良き明治の軍人 (一部抜粋しています)
司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で知られるようになった秋山好古安政6年(1859)伊予松山藩の貧乏な下級武士(徒士)の家に生まれた。松山藩は徳川の親藩であったから、維新後は賊軍藩として門閥の外におかれ、それぞれが生きのびるために苦闘を強いられた。貧家の出身であった秋山は、銭湯の風呂焚きなどをして書籍代をかせいで独学。タダでゆける学校へということで大阪へ出て師範学校へ進み、教師となった。
ところが先輩の勧めもあって突然に教鞭をなげうって陸軍士官学校に入学してしまう。「人は生計の道を講ずることをまず思案せねばならない。一家を養い得てはじめて一郷と国家のためにつくす」ことを好古は終生のモットーとしていた。まさに「食うために」手段として軍人の道を選んだといえるのかもしれない。
しかし、当時の陸軍はやはり賊軍出身のものには住みやすいところではなかった。長州を中心に門閥が勢威をふるっている。秋山は自然と自分の生きる道を自分で切りひらいてゆかざるをえない。かれはよく語っていたという。
「俺は単純であろうとしている。人生や国家を複雑に考えていくことも大事だが、それは他人に任せる。俺は軍人ゆえに、いかにして勝つかということを考えていく。それ以上は余事というものである。余事を考えたり行ったりすれば、思慮がそのぶんだけ曇り、乱れる」
その言のとおり秋山は出世とか地位肩書とかにいっさい我不関焉で、まっしぐらに自分の義務とするところを突き進んだ。とくに乗馬学校長、騎兵実地学校長となったとき、好古は教育者として異常な才能を発揮した。遅れていた日本陸軍の騎兵戦術の改良、そして訓練に心血を注いだ。そのことがあって、日露戦争における秋山が率いる騎兵第1旅団のかがやかしい奮戦と戦功が約束されていたのである。
しかし、秋山好古の人間としてのすばらしさは、「騎兵の父」としてより軍人をやめてから後の生き方のほうにある。日露戦争近衛師団長から教育総監を歴任んし、大将にまで栄進した人が、予備役になったあと故郷松山の北予中学校(現松山北高)の校長になった、というのである。
好古の着任の理由は簡単明瞭なものであった。
「俺は中学のことは何も知らんが、ほかに人がなければ校長になっていい。日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。役に立つのなら、俺は何でも奉公する」
こうして大正13年(1924)、66歳の好古は夫人をはじめ家族一同を東京に残して、単身で、松山の狭く小さな生家に帰った。これが位階勲等をきわめた人の身の処し方とは思われないほど、あっさりしたものだった。
好古校長は毎日馬で通った。実に6年間、出退勤のとき時間に1分と狂いなく、校長の通う道すじの人びとはその姿をみて、狂いやすい時間を正したという。
そしてその根本の人生観ともいえる「人生は簡素明確であれ、男子は生涯で一事を成せばよい」を教育理念にして校長として若ものに親しく接した。墨絵の達磨にそっくりの風貌で、うまそうに酒をのんだ。すべての贅沢をそそぎ落とした簡素な生活ぶりは、人びとに背すじの1本きびしいものが通ったサムライのそれを思わせた。