じじぃの「人の死にざま_944_大山・巌」

大山巌 - あのひと検索 SPYSEE
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ねずさんの ひとりごと 日清戦争のお話
この海戦によって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を完全に確保します。
10月24日には、大山巌率いる第二軍が旅順を制圧。
さらに10月25日には、山形有朋率いる第一軍が鴨緑江渡河作戦で清国陸軍に大勝利する。
そして日本は、明治28(1895)年4月の日清講和条約まで、清軍を相手に連戦連勝しています。
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大山巌 ウィキペディアWikipedia)より
大山巌は、日本の武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。階級は元帥陸軍大将。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した軍人。
【来歴】
天保13年(1842年)、薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれた(幼名岩次郎)。
戦争では西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣江川英龍の塾にて砲術を学ぶ。戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦い会津戦争などの各地を転戦。討幕運動に邁進した。12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行い、これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称された。会津戦争では会津若松城に向けて、大砲を雨霰のように撃ちこんで勝利に貢献した。この時の会津若松城には、のちの後妻となる大山捨松とその家族が籠城していた。
維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。
陸軍では順調に栄達し、西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争においては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。ともに、日本の勝利に大きく貢献した。同藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。

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『マスコミより確かな 習近平の言い分』 孔健/著 三五館 2015年発行
中国人がいまでも憎む8人の日本人 より
いまでも中国人が許すことのできない歴史上の日本人がいる。すべて戦争に絡んだ人物だ。雑誌の特集ネタにもなっている。
伊藤博文
大山巌
 日清戦争後、旅順攻略にあたった陸軍大将。旅順陥落後民間人を含む1万8000余名を殺害した、旅順大虐殺の責任者だ。
昭和天皇
東條英機
・岡村寧次
・谷寿夫
・石井四郎
土肥原賢二

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大山巌(おおやまいわお) (1842-1916) 74歳で死亡。(一部抜粋しています)
大山巌は大正5年11月上旬の九州大演習に、天皇に供奉(ぐぶ)したが、その帰途、11月17日に不快を訴えて須磨で途中下車し、実業家内田信也の別邸に宿泊したが、同夜上腹部に激烈な疼痛をおぼえ嘔吐をもよおし、苦悶の様子がただごとではなかった。
19日やや軽快したので、20日須磨を発したが、車中でふたたび苦しみはじめ、一睡もすることが出来なかった。21日帰郷し、診察の結果胆のう炎と診断され、以来治療につとめたが、嘔吐とシャックリがつづきて安眠出来ず、次第衰弱し、12月上旬から危篤に陥った。
12月10日午前11時45分に息をひきとった。
死ぬときに、枕元に蓄音器をおき「雪の進軍」のレコードをかけさせたというがどうであろうか。ただ、死ぬとき、外に雪がふりしきっていたことは事実である。
彼はかって副官にいった。
「私は幸運といわれるのは、ただ長生きしたからだよ。私よりえらい人はたくさんいたが、みんな死んでしまった。若いころに不摂生したものは、40、50前後にかけて2回は病気にかかってここでふるいにかけられるようだ。この2回をしのげば、あとは健康に注意しておれば相当長生きするものだよ。船は少なくとも10年毎にドックで修繕せねばならん。人間もときどきドッグに入って修繕することが必要だ」
人間ドックという言葉の発明者は大山かも知れない。

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