じじぃの「人の死にざま_1194_勝田・主計」

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愛媛の偉人・賢人の紹介
勝田 主計 (しょうだ かずえ) (1869〜1948)
http://www.i-manabi.jp/syogai/jinbutu/html/073.htm
勝田主計 ウィキペディアWikipedia)より
勝田主計(明治2年9月15日(1869年10月19日)- 昭和23年(1948年)10月10日)は日本の大蔵官僚、政治家。同郷の俳人正岡子規や海軍軍人・秋山真之と親しかった。
【生涯】
明治2年(1869年)現在の愛媛県松山市一番町に生まれた。
勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、明治28年(1895年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。大蔵次官を経て大正4年(1915年)に朝鮮銀行総裁に就任。寺内内閣で大蔵大臣を務めた。
【家族・親族】
弟・久貫は元日本電子計算社長・勝田正之の父である。正之は久貫の長男で、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の孫娘・寿々子と結婚した。故に勝田家は三菱の創業者一族・岩崎家と閨閥で結ばれたといえる。寿々子の父・康弥は弥太郎の三男にあたる。

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『近代日本の官僚』 清水 唯一朗/著 中公新書 2013年発行
帝国憲法制定前後――高等教育の確立 (一部抜粋しています)
近代日本の官僚を語るうえで興味深い集団がある。その名を二八会という。藩閥のように地縁に依ったものではなく、山県閥のように人事や婚姻で結ばれたものでもない。大学の同窓生、明治28(1895)年卒業生たちのグループである。だからといって学閥に特有の排他性は漢字させない。しかし、ほとんどすべての会員が政治的に近い道を歩んでいく。思想、理想、立場の近いゆるやかな連帯である。
彼らは試験制度を経た学士官僚の1期生であった。1894(明治27)年の卒業生が第1回試験をボイコットしたためである。それだけに彼らは各省で歓迎された。有能な人材が揃ったこともあり、彼らは互いに切磋琢磨し、助け合い、関係を含めていった。
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では、彼らはどんな学生時代を過ごしていたのだろうか。二八年組のひとりである勝田主計が学生時代の日記を遺している。彼の日記からは日清戦争後の勃興期に官界に入った青年たちの視野の広がりを見ることができる。
1867(明治2)年9月、松山藩士の五男に生まれた勝田は、愛媛第一中学校から一高を経て法科大学に進学した。卒業後は大蔵省に入って次官まで累進し、寺内正毅内閣、清浦奎吾内閣で蔵相、田中義一内閣で文相を務めた。秋山真之正岡子規とは幼なじみであり、子規を俳句の師となる大原基戎に引き合わせたのは勝田であったといわれている。自身も明庵、宰洲の号を持つ俳人である。
1886年に上京し、一高に入った勝田の生活は、同郷の仲間が集う寄宿舎を中心とするものであった。寄宿舎は、一高や帝国大学にほど近い本郷真砂町にあった坪内逍遥を増改築したものであり、旧主家である久松家が藩の子弟を育成するために創設した育英財団、常磐会が運営していた。
勝田はここを基盤に、子規をはじめ、同郷の仲間たちと学窓の日々を過ごした。寄宿舎の監督を務めた内藤素行が彼らをよくまとめた、内藤は松山藩から昌平坂学問所に学び、松山藩権少参事から文部省に転じて参事官となった教養人である。夕食後には内藤を囲んで茶話会が開かれ、文学から政治まで豊かな議論が行われた。
勝田は子規の推薦で常磐会の給費生となっており、寮費とは別に毎月7円(法科大学進学後は10円)の生活費を給費され、岐阜にあった兄からも毎月2円の仕送りがあった。白米10キロが70銭ほどという時代に毎月9円が自由になったわけだから、ゆとりのある学生生活である。もっとも、のちに大蔵官僚となるだけのことはあり、毎月の収支は自ら綿密に記録、管理していた。

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