じじぃの「人の死にざま_749_高橋・是」

高橋是清 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85/1270/
嗚呼 平成の後藤新平 高橋是清は何処に! 11/03/19 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WyoQ6OrwGX8
二・二六 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=l35hVbA_uxg&feature=related
プロジェクトJAPAN 「奴隷から宰相へ 高橋 是清」 動画 NHK
http://cgi4.nhk.or.jp/japan/moviegreatpersons/index.cgi?das_id=D0003200009_00000&seg_number=001
高橋是清 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
高橋是清は、日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年(大正10年)11月13日 - 1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。
【経歴】
嘉永7年閏7月27日(1854年9月19日)幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた 。
横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院)にて学び、慶応3年(1867年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。然し、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園で奴隷同然の生活を強いられ、幾つかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。
明治元年(1868年)、帰国する。帰国後の1873年明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人正岡子規バルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍、1884年明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑の為失敗。1892年(明治25年)再び帰国した後に川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。
高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
1931年(昭和6年)、政友会総裁犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。又、五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年(昭和9年)に、共立学校での教え子にあたる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺された。また、現在一般化している一般歳入の補填を目的とした国債発行を日本で始めて実行したことでも知られており、それを含め現在の日本の金融政策にも大きな影響を及ぼしている。

                                  • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
高橋是清(たかはしこれきよ) (1854-1936) 82歳で死亡 (一部抜粋しています)
幕末、13歳でアメリカへ留学し、だまされて奴隷に売られたり、帰国後の明治初年も、大酒飲みの放蕩生活で芸者の紐になったりしたが、その財政における能力と、何びとも魅する楽天的な活気は、後年の高橋是清を、大正松年までに3度蔵相とし、1度は首相の地位までつけた。
大正14年、71になった高橋は、これまで政界を隠退するつもりであったが、昭和にはいってからの嵐の時代は、この老人をさらに4度目の蔵相にひっぱり出した。禿頭白髯(とくとうはくぜん)、そのユーモラスな風貌は、「ダルマ蔵相」というニックネームで、国民の敬愛のまとであった。
昭和10年11月末の、昭和11年度予算閣議で、巨額の軍事費を要求する軍部に対し、高橋は、国家の健全財政あっての国防だといって懇々と軍部を説得し、あとになって心ある国民の共感を得たが、この閣議が終わって自邸に帰った高橋は、玄関で靴をぬいでも脚があがらず、自分で1本ずつ脚を持って式台に上ったという。文字通りの達磨(だるま)を地でゆく状態であった。
それから3ヵ月後、二・二六事件が勃発した。すなわち、昭和11年2月26日朝5時ごろ、120余人の叛乱軍は、機関銃、小銃、拳銃等で武装して、赤坂表町の高橋邸に殺到した。
高橋正衛『二・二六事件』によれば、
「中橋中尉は表門から、中島小尉は東門の塀を乗り越えて邸内に侵入し、内玄関から兵とともに乱入、家人に蔵相の部屋を案内させた。2階10畳の間にまだ就寝中の蔵相を発見、蔵相は落ち着いて寝たままであった。叛乱者側が『天誅』と叫びながら、布団をまくりあげ、拳銃で蔵相を射殺した。左第5肋骨ほか2ヵ所で絶命。しかもその体に刀をもって更に斬りつけた」とある。
       ・
天皇は事件を聞いて「朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮す、このごとき凶暴将校等、その精神に於てもなんの恕(ゆる)すべきものありや」と激怒したが、民衆の中には、乱入した将校が、蒲団からひきずり出した高橋に着物を与え、「高橋、コレキヨ」といったけしからぬジョークを作った者もあった。しかしそんな武士の情けはあらばこそ、真相は上記のごとく凶気の凶行で、天皇の怒りは当然である。

                                  • -

高橋是清 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85&oi=image_result_group&sa=X