じじぃの「歴史・思想_652_近代史の教訓・桂太郎(後編)」

大正期の政治①

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=A42IfIPajM4

桂太郎 「予が生命は政治なり」


安倍首相が並ぶ首相在職日数史上1位「桂太郎」とは

2019/11/1 Yahoo!ニュース
安倍晋三首相の通算在職日数が19日、2886日となり、歴代1位の桂太郎と並びます。
桂(1848年1月生~1913年10月死去)は主に明治時代で宰相を務めた人物。過去最長の記録を持ちながら今ひとつ知名度に欠けるこの人物を首相時代を中心に振り返ってみます。
https://news.yahoo.co.jp/byline/tarobando/20191119-00151309

『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第8章 桂太郎(後編)――「ニコポン宰相」がめざしたイギリス流二大政党制 より

「ニコポン」で国を束ねる

「予が生命は政治なり」
一軍人、一藩閥政治家としてキャリアをスタートしながら、一国を代表する宰相にまでのし上がり、晩年は真の議会政治を日本にもたらすべく新党の党首として、日本の政治に新時代を切り拓こうとした桂太郎が残した言葉です。実際、現代から振り返っても、日本近代史の中で桂ほど「政治とは何ぞや」ということについて、深く体得した人物を私は知りません。

近代日本の政治の宿痾(しゅくあ)とは、流行のイデオロギーや「時代の潮流」に衝き動かされたメディアや大衆の勢いに乗る社会運動が、政治の場で合理的な調整を経ないままに、直接、政府権力と対立する勢力としてぶつかり、両者の間の妥協のない権力闘争に発展してしまうことです。明治の世では「反藩閥」の情念に発する自由民権運動が巻き起こり、民党が「民権の伸長」を訴えたのに対し、政府は「国権の拡張」を訴えて、激しい対立が繰り広げられました。

しかし本来、民権か、国権か、などという政治対立は不毛です。このうちのどちらかを選び、残りを切って捨てれば済む、という性格のものではないからです。大切なのは、互いの要求を剥き出しのままぶつけ合うのではなく、国家のため、あるいは民の暮らしのため、結果的にどんな妥協が成立しうるのか、政敵とも腹を割って語り合うことでしょう。ここにこそ、議会をつくって政治を行なう本来の目的があったのです。そのために、あえて「ニコポン」――前述したように、敵対する勢力がいても自らニコニコしながら近づいて、相手の肩をポンと叩いて対立感情を和らげてしまう”裏ワザ”のこと――と称された、しかし本当は1番大切な政治を動かすための妥協をめざす必死の試みに打って出て、つねに話し合いによってこの国を1つに束ねようとした人物こそ、桂太郎だったのです。

前章で見たとおり、桂は日清戦争の最前線で指揮をとった「海城籠城戦」の疲れから、戦後一時静養を余儀なくされましたが、回復後、台湾総督、東京防禦総督を経て、明治31年(1898)1月、第三次伊藤(博文)内閣のもとで、陸軍大臣に就任します。

以後、桂は第一次大隈(重信)内閣、第二次山県(有朋)内閣、第四次伊藤内閣と、4つの内閣のもとで約3年間、連続して陸相を務めることになりました。

当時、衆議院では、多数を制した民党と政府の間で、予算の増減をめぐり、熾烈な応酬が繰り広げられていました。三国干渉、北清事変(義和団事件)以後、満州朝鮮半島の支配を強めるロシアに備えるべく、政府は国防費(陸海軍予算)の拡充を訴えますが、民党は地租(税金)の減額を求めてやまず、両者の主張は平行線を辿っていたのです。

そこで陸相の桂は、民党のリーダーでその強引な政治手法から「オシトオル」とあだ名された自由党の星亨(とおる)などと手を組み、彼らの要求する地方への鉄道敷設や選挙権拡張の実現を約束する代わりに、陸軍予算を議会で通してもらおうと図りました。このとき、陸相の桂によって繰り返し用いられた手法こそ、「ニコポン」だったのです。

こうして議会操縦の冴えを見せた桂が、第四次伊藤内閣のあとを受けて、明治34年(1901)についに首相に推され、内閣を組織したのは、ある意味で当然のことだったでしょう。急速にロシアとの対立が深まる中で、日本は軍備拡張を推し進めようとしましたが、そのためには衆議院の多数を占める政友会の協力が不可欠でした。桂は陸相時代に培った政党に対する人脈を生かしてこの壁を乗り越え、その都度必要な財源を確保しました。それと並行して、ロシアに対しては明治35年1月に結んだ日英同盟を盾に、満州からの撤兵を繰り返し要求します。

しかし、ロシアはこれに応じないばかりか、鴨緑江を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し、さらに南下を続けようとしました。朝鮮半島がロシアの支配下に置かれることは、地政学上、日本本土が直接脅威にさらされることを意味します。これは、端的にいえば、「座して死を待つのか、それとも打って出るのか」という決断を日本は迫られたわけです。ここに日本はロシアとの開戦やむなし、と決し、明治37年(1904)2月10日、ロシアに対して宣戦を布告したのです。

「鉄道広軌化」問題

明治38年9月、ポーツマス講和条約で賠償金を取れなかったことを不満ちする民衆が「日比谷焼き討ち事件」を起こしたのを機に、翌年1月、桂は戦時中に原敬と交わした密約を守り、政友会総裁・西園寺公望を首班とする内閣に政権を譲りました。以後、藩閥や官僚、陸軍をバックとする桂と、衆議院の第一党である政友会の総裁西園寺が交互に内閣を組織する、いわゆる「桂園時代」を迎えます。長州藩の上級武士の子である桂と公家出身の西園寺は、「元老排除」という問題意識で共通しており、いわば”出来レース”で政権を交替しながら、ともに日露戦争後の国家運営を行なうことをめざしたのです。
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明治天皇が桂のこのイギリス視察旅行にいかに期待をかけられていたかは、桂の出発に際し、1万5千円(現在の約2億円)もの大金を下賜されたことでもわかります。戦後、欧州から社会主義などの新しいイデオロギーが日本に流入する中で、いかに立憲政治を護持するか、また、いかに軍部の膨張を抑えるか。そのためには、「一刻も早く二大政党制による健全な議会政治を実現すべし」。こうした桂の理想を誰よりも理解していた人物こそ、明治天皇だったのでしょう。
しかし、運命の皮肉というべきか、桂がまさにシベリア鉄道経由で欧州へ向かうその途上、明治天皇危篤の報せが届きました。急遽、桂が日本に引き返そうとしている間に、「天皇崩御」の悲報が届くのです。この報を受けたときの桂の落胆は、察するに余りあります。

帰国した桂には、早速、山県による「陰謀」が待ち構えていました。政党嫌いの山県は、明治天皇に取り入りいつの間にか自分の権勢を脅かすような新党樹立をめざすようにようになった桂を密かに「裏切り者」扱いし、政治の場に戻ってこれないように工作したのです。つまり山県は根回しして”元老一致”の意見であるとでっち上げて、桂を明治天皇の後を継いだ大正天皇を補佐する内大臣侍従長に推薦し、「宮中に封じ込める」ことにしたのです。桂は、これが山県の「陰謀」であることを知りつつも、亡き明治天皇への忠誠心からあえて宮中入りを承諾しました。

国民に理解されなかった真意

こうして、国政の表舞台から退くことになった桂でしたが、明治天皇崩御のショックから立ち直ると、もう一度、国政に携わりたいという思いを抑えきれなくなります。折しも大正元年(1912)、第二次桂内閣の後を受けた第三次西園寺内閣は、財政難を理由に陸軍の求める「2個師団増設」を拒否したため、陸相上原勇作は単独で辞表を出し、内閣は総辞職に追い込まれました。政局の混乱を受けて、元老たちの誰もが組閣に尻込みする中、山県は今や政界随一の実力者である桂の再登板を認めざるをえなくなります。
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こうして、翌大正2年7月、桂は自宅に新聞記者を呼び寄せ、「立憲同志会」の立ち上げを発表します。イギリス流の二大政党制実現に向けて、桂は「その偉大なる一歩」を踏み出すはずでした。ところが、国は民こうした桂の真意を理解できませんでした。そして山県らの反政党勢力の暗躍もあり、政友会を先頭とする野党勢力やマスコミ、都市民衆が「閥族打破・憲政擁護」を唱えて国会を取り囲み、第三次桂内閣は在職わずか50日余りで退陣を余儀なくされてしまったのです。これを、戦後の歴史学では、「大正政党」とか「大正デモクラシーの始まり」と教えています。しかし、これはむしろ日本の民主主義にとって、実は「大いなる挫折」だったというべきでしょう。日本に真の議会政治の確立を、と望んだ桂の落胆は、いうまでもありませんでした。

結局、そのわずか8ヵ月後、失意のどん底にあった桂は死去します。享年66。桂が、陸軍を仕切る元老山県の「一の子分」にして、”反立憲政治の頭目”と国民に誤解されたままこの世を去ったことは、彼の志を知る者にとっては、あまりにも悲劇的な結末だったといえましょう。

しかし、桂は志半ばにして逝去しましたが、彼の創設した立憲同志会はその後、立憲民政党と名を変え、立憲政友会と並ぶ昭和戦前期の二大政党の1つとなります。戦前の日本に、曲がりなりにも「憲政の常道」と呼ばれる議会政治が布かれたのは、この桂の素志なくして語れません。