伊藤博文による立憲政友会の誕生
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最初は憲政党も山県内閣を支持していたのですが、山県が憲政党を全く無視して政策を進めてしまっていたので、だんだん山県に対して不満を持つ人も出てきました。
伊藤は山県のことが好きではなかったので、山県に反発していた政党と手を組み、立憲政友会というものを新しくつくりました。この結果、立憲政友会の第四次伊藤博文内閣が1900年10月に発足されたのです。
https://www.worldwide-transition.info/meiji/teikoku/seiyukai.html
第5章 伊藤博文(後編)――世界に恥じない近代立憲国家をめざして より
「維新三傑の後継者」
「わが国の国旗の中央にある赤い丸は、旭日(ライジング・サン)を象徴しています。やがて日本は世界の文明諸国に肩を並べ、この朝日のように天高く昇っていくでしょう」
明治5年(1872)1月、サンフランシスコに到着した岩倉使節団の副使・伊藤博文が、歓迎レセプションの席上、日本人を代表してスピーチした有名な「日の丸演説」です。
「勤王の志士」として動乱の幕末を生き延び、当時稀な国際性と開明性を兼ね備えた伊藤は、このとき、日本を世界一流の近代国家に育て上げることを高らかに宣言したのです。
翌明治6年、欧米視察の旅を終えて帰国した伊藤は参議兼工部卿に就任。大隈重信(参議兼大蔵卿)とともに、新政府の大黒柱、大久保利通(参議兼内務卿)を支えて、「殖産興業」に邁進することになります。薩摩人らしく剛毅な性格で抱擁力があり、強い意志で着々と日本の近代化を進める大久保を、伊藤は大いに信頼していました。
それだけに、明治11年(1878)5月、大久保が紀尾井坂で旧金沢藩士族に暗殺されたとの報には大きなショックを受け、人前をはばからず大声を上げて泣いていたといわれます。
すでに前年、西南戦争の最中に木戸孝允が病死。そして西郷隆盛も城山に散りました。「維新の三傑」と謳われた明治維新の立役者が相次いで世を去り、明治国家の恥取りは伊藤ら次の世代に託されることになったのです。
当時、「維新の三傑」の最も有力な後継者とみなされていたのは、大隈重信でした。最古参の参議である大隈は、旧佐賀藩出身ということで、「非薩長勢力の代表格」と思われていました。もともと伊藤と大隈は、ともに開明派官僚のトップとして日本の近代化を進める「同志」の間柄でした。しかし、その2人が、次の日本の心理をめぐって、激突することになります。
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明治10年の西南戦争の終結によって、武力で国の方向を決する時代が終わり、伊藤をはじめ政府内の開明派リーダーの間では、ようやく国会を開設することが一定のコンセンサスになりつつありました。
そこで明治12年(1879)、明治天皇は各参議に「国会開設」と、すでに明治9年頃から元老院で草案づくりが行なわれていた「憲法制定」について、意見書を出すように指示されていました。参議たちの意見書は、明治14年2月頃までには出揃いましたが、なぜか筆頭参議の大隈だけが提出しようとはしません。訝(いぶか)しく思った右大臣・岩倉具視が催促するに及んで、大隈はようやく意見者を提出しましたが、その内容が日本に大混乱をもたらすことになるのです。
明治14年の政変
大隈の意見書は、1年後の明治15年末までに国会議員選挙を行い、明治16年には国会を開設、選挙で多数を得た政党の閣僚によって内閣をつくるという、当時の日本人の常識からすれば極めて急進的なものでした。いうまでもなくこれは、イギリスの「議院内閣制」に倣ったものですが、実は、同時期のヨーロッパ諸国の中でも、「議院内閣制」に基づく安定した政党政治を行なっていたのは、議会政治に百数十年の歴史をもつイギリスぐらいでした。フランスやイタリアなど、他の国では議会政治をめぐって騒乱が相次ぎ、立憲政治も機能していないことが多かったのです。それをいきなり、日本でもやろう、というのですから、反対があっても当然です。
大隈の意見書に対しては、本来同じ開明派リーダーである伊藤でさえ、現実をあまりに無視した無謀な内容だとして激怒します。それだけではなく、大隈がこんなに過激な意見を述べるに及んだのは、誰かに唆(そそのか)されて、権力奪取の「クーデター」を起こそうとしているのではないか、とまで疑ったのです。
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このとき、類稀なる胆力と調整力を発揮して、この「国家分裂」の一大危機を未然に防いだ人物こそ、明治の「秀吉型リーダー」伊藤博文でした。伊藤は、他の薩長系の参謀に半ば担がれるかたちで、大隈を戦闘とする反薩長勢力との政争に全力をかけて戦うことを決意します。そしてまず岩倉と謀って、大隈を明治政府から追放すると同時に、黒田清隆を説得して開拓使官有物の払い下げを中止させました。つまり、一方では強硬策に出つつ、他方では世論に妥協したわけです。このあたりのバランス感覚は見事です。さらにその押さえとして、「明治23年(1890)に国会を開設する」という天皇の詔勅を出すことによって、民権派の国会開設要求をひとまず沈静化することに成功しました。これが「明治十四年の政変」と呼ばれる一連の政変劇の顛末です。
「進歩的」な明治憲法
ヨーロッパからの帰国後、伊藤博文は井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎ら若手とともに、憲法制定の準備に取りかかります。
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明治33年(1900)9月、伊藤は旧自由党員を糾合して「立憲政友会」を結成、そして自らその初代総裁に就任しました。この伊藤の行動に対して、他の元老たちが――山県有朋はその最たる者ですが――「裏切り者」扱いしたのは、当時、政党はすべて藩閥政府に敵対する存在、としか見なされていなかったからです。
しかし、他の藩閥リーダーと違い、伊藤は日本を真の立憲国家とするために私心を捨て、またしても、「火中の栗」を拾ってみせたのでした。こうした決断こそ、吉田松陰をして「中々の周旋家(現実的な政治家)になりそうな」と評せしめた、伊藤博文の生涯を貫く美質だったといえるでしょう。
以後、この立憲政友会は西園寺公望、原敬などの首相を生み、山県系の官僚・軍閥人脈と対抗しながら、明治・大正期の立憲政治をリードする存在になります。そして大筋において、この「伊藤政友会」の系譜が戦後、自由民主党に受け継がれて今に至っているわけです。
日本を、天皇を中心とした世界に恥じない近代立憲国家に――これこそ「勤皇の志士」出身の伊藤が生涯を賭けて追い求めた理想でした。
そしてこの国が今も、伊藤が敷いてくれた立憲政治、政党政治のレールの上を走っていることは、紛れもない歴史的事実です。
残念ながら現在、わが国は予想もしなかったような国力の低下と政治の停滞の中を漂っています。「政界の再編」もしきりに叫ばれていますが、そもそも何のための政党政治、議会政治なのかは十分に語られていません。今こそ、伊藤がどんな思いで立憲政治を実現しようとしたのかに、思いを馳せる必要があるのではないでしょうか。
すなわち、あくまで「国家のために」と火中の栗を拾うべく、身を捨ててでも多くの政治・政党指導者が大団結を図るべく率先して行動した、伊藤博文の偉大なる「秀吉型リーダーシップ」に学ぶべきときなのかもしれません。