じじぃの「歴史・思想_644_逆説の日本史・明治時代の終焉・幸徳秋水」

幸徳秋水と管野スガ


大逆事件とは】簡単にわかりやすく解説!!事件発生の背景や内容・その後など

2019年3月29日 日本史事典.com
https://nihonsi-jiten.com/daigyaku-jiken/

大逆事件(たいぎゃくじけん)

デジタル大辞泉 より
明治43年(1910)多数の社会主義者無政府主義者明治天皇の暗殺計画容疑で検挙された事件。
大逆罪の名のもとに24名に死刑が宣告され、翌年1月、幸徳秋水ら12名が処刑された。幸徳事件。

幸徳秋水(こうとくしゅうすい)

デジタル大辞泉 より
1871~1911 社会主義者。高知の生まれ。名は伝次郎。
江兆民の門下。明治34年(1901)社会民主党を結成、即日禁止される。日露戦争に反対し、堺利彦と「平民新聞」を創刊。のち、渡米。帰国後アナーキズムを主張。大逆事件で検挙、主犯として死刑になった。著「廿世紀之怪物帝国主義」「社会主義神髄」など。

管野スガ(かんのすが)

世界大百科事典 より
1881‐1911(明治14‐44)。
明治の社会主義者。筆名須賀子,号は幽月。大阪生れ。
鉱山師であった父の事業の失敗やみずからの離婚の不幸をへて《大阪新報》の記者となり,大阪婦人矯風会の林歌子の知遇をえて上京した。社会主義思想に近づき1904年平民社堺利彦を訪ね,やがて紀州田辺の《牟婁新報》に入り,ここで荒畑寒村と結婚。08年赤旗事件で投獄されたのち幸徳秋水と恋愛同棲し,アナーキズムに共鳴,09年《自由思想》の発行に協力するが,発禁となる。
1910年宮下太吉らと天皇暗殺を企てたことを理由に捕えられ,翌年幸徳らとともに刑死(大逆事件)。獄中手記《死出の道艸(みちくさ)》。

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第3章 「明治」という時代の終焉 より

「でっち上げ」で極刑に処せられた究極のアナキスト幸徳秋水

これまで述べたように、明治天皇儒教的名君をめざし、ひたすら徳を積むことをめざしていた。その天皇が「朕の不徳の致すところ」と生涯の汚点と考えたかもしれない大事件が、その治世の晩年に起こった。いわゆる大逆事件である。
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この大逆事件で逮捕された24名、死刑に処された12名のうち4名以外は無実であった。とくに、事件の代名詞にもなっている幸徳秋水も暗殺計画は知っていたが参加はしなかったので、まったくの無実であった。ところが証人喚問もしないスピード審査のデタラメ裁判で死刑に処されてしまったのである。
たしかに、この中に明治天皇を殺そうとしたメンバーもいた。幸徳秋水の「パートナー」であった管野スガがそのリーダーだったのだが、ここで2人の経歴を紹介しておこう。
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とにかく、大逆事件なるものの実態はまさに、管野スガ、宮下太吉、新村忠雄の3名を主体とした暗殺未遂事件に過ぎなかったのだが、管野と同棲しその思想に影響を与えたとは言え、計画には加わらなかった幸徳秋水、彼らの思想に影響を与えただけの内山愚童が共犯として処刑されただけで無く、幸徳の無政府主義に共感し交流があっただけのキリスト教徒大石誠之助や大石と親しく地元の和歌山県新宮市社会主義運動をやっていただけの成石平四郎、爆弾の製造法を聞かれただけの奥宮健之、社会主義運動家ではあったが暗殺未遂事件とは関わりない松尾卯一太と新美卯一郎らも死刑に処せられてしまった。
つまり、桂内閣は実行犯4名の事件を死刑判決者だけでも24名に拡大し、死刑判決を受けた24名のうち半数の12名は減刑したものの、12名は判決6日後(管野スガだけは7日後)に処刑してしまったのである。この裁判は1審だけで、審理は公開されなかった。つまり国民はなにも知らされず、桂内閣の意を受けた検察官が無実の人間を大量に極刑に追いやったという、まさにやりたい放題のとんでもない事件であったのだ。言葉を換えて言えば、桂内閣いや首相桂太郎は権力側がもっとも免罪をでっち上げやすい大逆罪を巧みに利用して社会主義勢力の大弾圧を図ったということだ。これが、異例の出世を遂げ公爵にまでなった「ニコポン」桂太郎のもう1つの顔である。

天皇に対する「戦争を好まず平和を重んじていらっしゃる」という評価はホンネだったのか?

幸徳秋水は、きわめて博学だった。
ギリシャ・ローマは言うにおよばず古代中国の歴史にも詳しく、当時のヨーロッパ4やアメリカの国内情勢にも精通していた。したがって、その著作『廿世紀之怪物 帝国主義』では古今東西さまざまな事例を引きながら「愛国心」の正体に迫っている。近代史の事例としては、ボーア戦争からイギリスのピータールー事件、人物ではドイツの「鉄血宰相」ビスマルクやその主君であるヴィルヘルム1世、2世、日本の政治家としては伊藤博文山県有朋、さらにはシェイクスピア劇の登場人物であるマクベスまで引き合いに出している。ピータールー事件というのは、1819年(文政2)にイギリスのマンチェスターで起こった事件で、当地のセント・ピーター教会前広場で民衆が当局の弾圧を受け、11名の死者と多数の負傷者が出たというものである。そこでこの事件は、ナポレオン戦争ワーテルローにおける勝利をもじって「ピータールーの虐殺」と呼ばれた。民衆の強烈な皮肉である。そんな事件まで幸徳は詳しく知っていたのだ。そしれ愛国心に対する結論は、

  自分を愛し、他人を憎め。同郷人を愛し、他郷人を憎め。神の守護する国(日本)や世界の中央に位置する文化国家(中国)を愛し、西洋人や辺境の異民族を憎め。愛すべき者のために憎むべき者を討つ。これを名づけて愛国心という。
    (『二十世紀の怪物 帝国主義幸徳秋水原著 山田博雄訳 光文社刊)

そして幸徳はさらに続ける。

  そうだとすれば、愛国主義はあわれむべき迷信ではないのか。迷信でなければ、いくさを好む心である。いくさを好む心でなければ、うぬぼれの強い、思い上がった自国の宣伝である。
                  (引用前掲書)
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「二十世紀の文明は、いまだに弱肉強食の状態を抜けだせない」、幸徳はこのように嘆いたあと、「『愛国心』を経とし、『軍国主義』を緯として、織りなされた」帝国主義にとりつかれた日本の経済状況について、日清戦争前は8千万円にすぎなかった国家予算は数年のうちに3倍になり、台湾の経営のためにその倍の1億6千万円の費用をつぎ込まねばならなかった、と指摘している。さらに日清戦争の賠償金2億両も夢のように消え、日本の財政は乱れ、輸入超過および度重なる増税で国民の生命も厳しい状況になると予測したうえで、次のように「断言」している。

  帝国主義という政策は、少数の人間の欲望のために、多数の人間の幸福と利益を奪うものだ。野蛮な感情のために、科学の進歩を邪魔するものだ。人類の自由と平等を絶滅させ、社会の正義と道徳を傷つけ、世界の文明を破壊するものだ。
                  (引用前掲書)

このように結論づけた幸徳は、だからこそ日本も世界も一刻も早く帝国主義を捨てるべきだと考えていた。もちろん、これこそ幸徳が『廿世紀之怪物 帝國主義』を世に問うた最大の理由である。

ところで、一般的には幸徳は大逆罪については無実にしても、無政府主義者であり帝国主義絶対反対論者であったことから明治天皇(当時はまだ今上天皇)についても舌鋒鋭く批判しているのだろうという見方がある。私も正直言って、この著作を読むまではそうだろうと決めつけていたのだが、実際に読んでみると幸徳は驚くほど天皇に対しては丁重な態度を取っている。こんな具合である。

  日本の天皇はドイツの若い皇帝とは異なる。戦争を好まず、平和を重んじていらっしゃる。圧政を好まず、自由を重んじていらっしゃる。一国のための野蛮な虚栄を喜ばず、世界のための文明の幸福と利益を願っていらっしゃる。決して今時(いまどき)のいわゆる「愛国主義者」「帝国主義者」ではいらっしゃらないようである。
                  (引用前掲書)

これはいったいどうしたことか。この本の目的は帝国主義撲滅を訴えることだから、ほかの部分で無用な摩擦を避けようとしたのか。つまりこれは外交辞令なのか。それとも幸徳の本音なのか。この点については幸徳の別の著作も視野に入れて検討しなければいけないので、とりあえずは措(お)く。記憶にとどめておいていただきたい。