じじぃの「人の死にざま_841_堺・利彦」

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非戦と平等を求めて〜幸徳秋水堺利彦 動画 Woopie
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非戦と平等を求めて〜幸徳秋水堺利彦 動画 Woopie
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堺 利彦
明治・大正・昭和の三代にわたり社会主義運動の開拓に生涯を捧げた堺 利彦は、日本における社会主義運動の父である。
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堺利彦 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
堺利彦(さかいとしひこ、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1933年(昭和8年)1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚渋六。
【生涯】
没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。
『萬朝報』の記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三幸徳秋水らと理想団を結成。この時期に社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱える。しかし『萬朝報』は、日露戦争に際し主戦論に路線転換したため、内村鑑三幸徳秋水とともに退社。平民社を開業して週刊『平民新聞』を発行、非戦論・社会主義の運動を開始する。週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載した。これは、サミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳であったが、日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。
1905年に社会主義機関誌『直言』にエスペラントに関する記事を掲載。その後、1906年に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任した。
1906年日本社会党を結成して評議員となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめる。1908年の赤旗事件により2年の重禁固刑を受け、その入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が起こるが、獄中にいたため連座を免れて出獄。社会主義のいわゆる「冬の時代」は、売文社を設立して雑誌『へちまの花』、次いでその後継誌『新社会』の編集・発行をはじめとする事業をおこなって生活の糧とするとともに、全国の社会主義者との連絡を維持した。1920年には日本社会主義同盟が結成されるが翌年に禁止されてしまう。
1932年の6月頃発狂し、翌月には家庭内暴力を起して青山脳病院(現・東京都立小児総合医療センター)に入院した。翌年の1月に脳溢血で死去(享年64)。

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日本人は何を考えてきたのか 第4回 「非戦と平等を求めて 〜幸徳秋水堺利彦〜」 2012年1月29日 NHK Eテレ
【キャスター】三宅民夫 【出演】明治大学教授 副学長 山泉進 【リポーター】フランス・ボルドー第三大学教授 クリスチーヌ・レヴィ
日露戦争で非戦論を唱えた幸徳秋水堺利彦。1910年の大逆事件で幸徳は死刑となるが、その後の「社会主義冬の時代」を、堺は文筆で生き抜いていく。直接行動を主張した幸徳に対し、堺はあくまで議会制民主主義の中で変革を考えていた。しかし2人は堅い絆で結ばれ、戦争反対では一致していた。フランスボルドー第三大学のクリスチーヌ・レヴィさんが、2人のゆかりの地を訪ね、世界史の中で非戦論の意義を考えていく。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0129.html
『ことばの探偵』 安野光雅森毅井上ひさし/編集 筑摩書房 1988年発行
予の自伝 【執筆者】貝塚渋六(堺利彦) (一部抜粋しています)
およそ伝記は、その自伝たると他伝たるとを問わず、まずその本人の父母を叙(じょ)し、更に遡ってその先祖調べをするが常である。余の奇抜独創といえども、この点においては止むなくその例に従わざるを得ぬ。
予が貝塚家の家督を相続した時、父より予に譲りわたされたものは、家屋敷1個所(松山及び桑畑附)、後に全部売代なして大枚金七十円となる)家具若干、負債若干、位牌一束、系図一巻であった。
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そこで結局のところ、予の系図しらべ、祖先研究は全く徒労に属した。予には特定の祖先という者が無いのである。予の自伝の第一歩はすでに失敗に終わったのである。
予は実にガッカリした。しかし予は更に勇を鼓(こ)してこれから予の自伝を書かねばならぬ。しかしフト気がついて見ると、また1つ大変がある。予はすでに原稿用紙40枚を書き尽している。これからボツボツ自伝を書いていては、紙数の増加すること先祖数の増加のごときものがあるに相違ない。それでは『中外』の編集者が困る。
予は多年文筆の業にたずさわっておりながら、何という無計算な書方をしたものだろう。しかしこういう話がある。予の友人堺利彦君の翻訳した『社会主義倫理学』は独逸(ドイツ)社会党碩学(せきがく)カウツキー先生の原著であるが、先生があの書を著した時、最初は雑誌『ノイエ・ツァイト』の数頁を充たすべき一論文を書く積りであったが、だんだん研究しながら書いて行くと、馬鹿に紙数がふえて来た。『予は今度くらい腹案を狂わせた事はない』とあの書の序文に書いてある。そこで先生は仕方がないから、あれを独立の単行本として世に発表したのである。しからば予といえども、本誌数頁の中に書き終わる積りで執筆しかねた本編『自伝』が、系図しらべ、先祖研究の一段だけで、既に予定の枚数に超過したとて、あえて不思議はないはずである。いな、それこそかえって予がカウツキー先生にも劣(おと)らざる、学者の忠実と文士の熱情とを併せ有する証拠である。

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