じじぃの「人の死にざま_624_幸徳・秋」

日本人は何を考えてきたのか 第4回 「非戦と平等を求めて 〜幸徳秋水堺利彦〜」 (追加) 2012年1月29日 NHK Eテレ
【キャスター】三宅民夫 【出演】明治大学教授 副学長 山泉進 【リポーター】フランス・ボルドー第三大学教授 クリスチーヌ・レヴィ
日露戦争で非戦論を唱えた幸徳秋水堺利彦。1910年の大逆事件で幸徳は死刑となるが、その後の「社会主義冬の時代」を、堺は文筆で生き抜いていく。直接行動を主張した幸徳に対し、堺はあくまで議会制民主主義の中で変革を考えていた。しかし2人は堅い絆で結ばれ、戦争反対では一致していた。フランスボルドー第三大学のクリスチーヌ・レヴィさんが、2人のゆかりの地を訪ね、世界史の中で非戦論の意義を考えていく。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0129.html
幸徳秋水 - あのひと検索 SPYSEE
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非戦と平等を求めて〜幸徳秋水堺利彦 動画 Woopie
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非戦と平等を求めて〜幸徳秋水堺利彦 動画 Woopie
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「小説 大逆事件」を読んでみました。想像していた以上に大変な事件のようです
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj010504.html
幸徳秋水 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
幸徳秋水は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者無政府主義者。本名は幸徳傳次郎。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件で処刑された12名の1人。
【経歴】
高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。
明治20年(1887年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。同年(1887年)発布された保安条例で大阪に移った兆民は角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げ、いわゆる壮士芝居の先駆となる。そのときの演目のひとつ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が秋水に執筆を依頼したといわれる。
秋水は記者のかたわら国民英学会などで学び、明治33年(1900年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党がかつての政敵である藩閥伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを嘆き、萬朝報に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。また同年6月より起こった義和団の乱(北清事変)制圧の際、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を万朝報で追求し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込む(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山県有朋の恨みを買ったことがのちの大逆事件につながったとする説がある。
明治37年(1904年)、「与露国社会党書」発表、堺と「共産党宣言」を翻訳発表、即日発禁される。
明治38年(1905年)、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。アメリカに亡命していたアナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。
明治43年(1910年)6月、幸徳事件(大逆事件)において逮捕。翌年に死刑判決を受け、他の死刑囚とともに1月24日処刑された。これには当時すでに国内や海外の一部から批判があり、社会主義者たちを一網打尽にしたかった当局が仕組んだ謀略である、というのがほぼ定説になっている(管野須賀子ら数名による皇族暗殺計画の準備はあったので、全てが事実無根の謀略というわけではない。しかし幸徳を含め、処刑になった者の中には冤罪による刑死者が混ざっていたのではないかとの指摘もある。ただし幸徳は事件当時、皇族暗殺計画の首謀者である管野と同棲中だった)。
大逆事件
一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
幸徳秋水(こうとくしゅうすい) (1871-1911) 40歳で死亡。(一部抜粋しています)
いわゆる大逆事件の指導者と目された幸徳秋水は、明治43年12月11日の第1回の公判後、1ヵ月のちの明治44年1月18日の判決という判決という異常なスピード裁判の結果、「一味」の23人とともに死刑を宣告された。
第1回公判前の11月末、幸徳の母多治子は、数え年70歳の身で、土佐から出て来て、東京監獄で面会したのちまた土佐に帰っていったが、12月20日過ぎから寝込み、みりみる衰弱し、28日に死んだ。
44年元旦に、幸徳は堺利彦宛の手紙の中に、母のことを書いた。
「…最後の別れの折に、モウお目にかからぬかも知れませんと僕が言うと、私もそう思って来たのだよ、と答えた。ドウカおからだを大切に、というと、お前もシッカリしておいで、と言捨てて立去られた音容が、今もアリアリと目に浮かんで来る。考えていると涙がとまらぬ」
死にゆく大逆の息子を毅然として激励した老いたる母は、ふるさとへ帰って力尽きたのである。
刑の宣告から6日後の1月24日、独房に置かれた朝食に、特別に塩焼きの小鯛が膳にのっていたので、彼はその日が来たことをたちまち悟った。
幸徳は、鯛の匂いをかいだだけで残し、白湯(さゆ)をすすって、前から書きかけていた感想文をつづけ出した。
「今の私1個としては、その存続を論ずるほどに死刑を重大視していない。・・・・病死と横死と刑死とを問わず、死すべきときのひとたび来らば、充分の安心と満足とをもってこれに就きたいと思う。今やすなわちその時である。これ私の運命である」
そこまで書いたとき、廊下に靴音がして、刑の執行を告げられた。幸徳は、書きかけの原稿にしめくくりをつけたいと願い出たが、拒絶された。
教誨師(きょうかいし)が、辞世ならいいでしょう、というと、幸徳は皮肉な微笑を受けべて、
「爆弾のとぶよと見てし初夢は千代田のマツの雪折れの音」
と、書いた。
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絞首台の落し板がひらいたのは、午前8時6分。
徳富蘆花はこれを知らず、25日の朝、「天皇陛下に願い奉る」と題する助命嘆願状を書いて、朝日新聞社に発送したが、そのあと新聞をひらき、彼らの死刑が前日執行されたことを知って、「今さら何をかいわん」とさけんだ。
幸徳やを絞首刑に送った山県有朋ら権力者たちは、幸徳らを狂人、蘆花を半狂人と確信していたであろう。しかし、後になって見れば、その連中こそ実は一種の狂人たちであったのだ。

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