じじぃの「人の死にざま_1066_小泉・信三」

小泉信三 - あのひと検索 SPYSEE
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志ん生 大津絵 動画 YouTube
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皇太子の教育係りを務めた小泉信三 本の話WEB
http://hon.bunshun.jp/articles/-/852
小泉信三 ウィキペディアWikipedia)より
小泉信三は、日本の経済学者。今上天皇の皇太子時代の師父。1933年(昭和8年)〜1946年(昭和21年)まで慶應義塾長。父は慶應義塾長(1887年(明治20年) - 1890年(明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉。
【小泉と共産主義
小泉は共産主義の批判者であったが、同時に共産主義を深く研究していたことは特筆すべきことである。小泉が社会主義に興味を持つ切っ掛けとなったのは、幸徳秋水等が処刑された大逆事件である。
共産主義批判の常識』は新潮社より刊行されベストセラーとなった(後に講談社学術文庫で再刊)。小泉の著書の中でもっとも多く読まれた著書の一つである。
【小泉とスポーツ】
1922年(大正11年)から塾長就任の前年である1932年(昭和7年)までの期間庭球部部長をつとめるなど、慶應義塾體育會(体育会)の発展にも力を尽くした。「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の言葉は有名。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
小泉信三(こいずみしんぞう) (1888 - 1966) 78歳で死亡。(一部抜粋しています)
皇太子(現天皇)の教育係として東宮御所参与の職に就き、皇太子妃決定に際して最大の推進者となった。随筆家としても知られ多くの著書を残しているが、太平洋戦争で死んだ長男のことを書いた、『海軍主計大尉小泉信吉』はベストセラーとなった。『小泉信三全集』全22巻がある。
次女の妙は信三の印象を「父は晩年、というより、亡くなる前日まで活気に溢れていた。青年らしい老人で。78歳という年を人に感じさせず、自分も忘れているかのようだった」と書いている。また日ごろから信三は「俺は滑稽なことを言いながら死んでやる」と言っていたという。死の直前の78歳の誕生日でも、冗談の憎まれ口をきいて長女加代を怒らせ、泣かせたほどであった。昭和20年5月24日の大空襲で焼夷弾を浴び、全身と顔に大火傷を負い、以後目も口も完全に閉じることができない無惨の顔貌と化してしまった。そのことで、「お前たち、俺が死んだら。目と口はすぐに縫いつけて、とじさせてくれよ」とよく言った。まぶたが完全に閉じず、寝るときは手拭いで顔を縛って寝ていたのだった。
昭和41年4月29日の天皇誕生日に宮中に拝賀。その足で京都に旅立った。翌日妙の夫の準蔵が膵臓炎を起こして入院し、その知らせを受けたとき「ああ、どうかどうか」と言って絶句したという。この言葉に娘は剛毅な父が今や老いたことを感じた。このころから狭心症の発作らしきものがしばしば起きていたらしく、妻にも「胸がしめつけられるようなことがある」ともらしていた。5月2日に加代の勧めで診断を受けたが、心電図には異常が見られず、安心した。
4日の誕生会でも元気であったが、10日の夜半ふいに妻に心臓の苦痛を訴えた。あわてて医者を呼ぶ妻に「心配させて済まないね」と言ったきり深い眠りに入り、翌朝7時過ぎ、突然大きな息を吐いて、そのまま世を去った。

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