じじぃの「人の死にざま_838_三木・清」

三木清 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%B8%85/7793/
三木清『人生論ノート』 THE MIDNIGHT SEMINAR ON THE WEB
http://d.hatena.ne.jp/midnightseminar/20110108/1294450193
日本人は何を考えてきたのか 「近代を超えて 〜西田幾多郎と京都学派〜」 (追加) 2013年1月20日 NHK Eテレ
【出演】福岡伸一青山学院大学教授)、藤田正勝(京都大学教授)、植村和秀(京都産業大学教授)、三宅民夫アナウンサー
善の研究」で「純粋経験」の論理化につとめた西田幾多郎。人生苦の中で参禅し、西欧近代哲学の主客二分の認識を越える思想を産み出そうと苦闘していた。京都大学教授となった西田の下からは、田辺元三木清ら多数の人材が輩出し「京都学派」と呼ばれるようになる。
やがて戦争の時代、「近代の超克」を唱える西谷啓治ら4人の京都学派の哲学者に海軍省調査課長の高木惣吉が近づき、戦争の理論化を図った。その会合の様子を記した「大島メモ」が発見され、議論の内容が明らかになった。また、三木清は近衞文麿の昭和研究会に参加し、「東亜協同体」を主張するが、治安維持法違反で逮捕され、終戦直後に獄死する。
番組では、生物学者福岡伸一さんが、近代と格闘した西田幾多觔ゆかりの金沢、京都を訪ね、京都学派と戦争との関わりを考えていく。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0120.html
三木清 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
三木清は、(西田左派を含めた上での)京都学派を代表する哲学者。弟に中国文学者の三木克己がいる。
【生涯】
兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)出身。
1922年には岩波茂雄の資金的な支援を受けてドイツに留学。
1925年帰国し、翌年には処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表。1927年には法政大学文学部哲学科主任教授となった。同年12月に創刊された岩波文庫とも深い関わりがあり、巻末の公約「読者子に寄す」は三木によって書かれたものといわれている。
羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を起こして、たんなる党派的な教条にとどまらないマルクス主義の創造的な展開も企てたが、1930年、日本共産党に資金提供をしたという理由によって逮捕され、転向をよぎなくされた。不当な有罪判決によって公式には教職に就けなくなった三木は、活動の場を文筆活動に移していった。
総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人がかかえる二面性であるが、三木はその典型であった。すでに軍部と皇道右翼によって、マルクス主義はもちろん、自由主義者もまた、自立的な社会的活躍の余地を奪われていた。そのような政治的に非常に息苦しい状況にあって、総力戦体制の効率化、合理化は、一面では、体制派の主流に対するある種の批判的意見表明を可能にする最後の可能性と見えていた。しかし、「昭和研究会」は軍部や保守勢力によって敵視され、不本意にも解散をよぎなくされたため、やがてその流れは、大政翼賛会のなかに取り込まれていく。そのことにより、総力戦動員の合理性に託して、なんらかの社会変革を遂行するという知識人の当初の期待は、たんなる戦争協力へといっそう変質していくことになる。
1947年、『人生論ノート』創元社より出版。

                                • -

『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
三木清(みききよし) (1897-1945) 48歳で死亡。(一部抜粋しています)
兵庫県揖保郡生まれ、京大で西田幾多郎波多野精一らに学ぶ。大正11年に、岩波重雄の援助でドイツ・フランスに留学し、ハイデルベルク大学リッケルトマールブルク大学でハイデッガーの教えを受ける。
14年、28歳で帰国。同年三高講師を経て昭和2年法政大教授に。同年岩波文庫の創刊に尽力している。発刊の辞「読者子に寄す」は三木が書いて岩波茂雄が手を入れたものである。
翌年上梓(じょうし)した『唯物史觀と現代の意識』は同時代の知識人に大きな影響を与え、マルクス主義哲学者として一躍注目を集めた。
昭和5年共産党に資金を提供した容疑で検挙され、投獄中に教職を失って著作活動に入る。それをきっかけにマルクス主から一定の距離を保つようになった。以降、実存主義と宗教への関心を示し、西田哲学と親鸞の研究に移ったが、一方ではファシズム軍国主義に抗して”新しいヒューマニズム”を主張、時代と文化の批判を展開する。
そして敗戦の年。
三木清は、昭和20年3月、警視庁から脱走した共産主義者高倉テルを1晩泊め、洋服と金を与えて送り出した。/3月28日午後10時ごろ、三木は岩波書店の2階で小林勇と話していると、うしろから肩をたたかれた。『警視庁から来た』と、2人の戦闘帽をかぶった男が落ち着いた声でいった。/三木は治安維持法違反の罪で警視庁に留置されたのち、東京中野の豊多摩刑務所に送られた。そして、戦争が終わっても、ひどい疥癬(かいせん)と栄養失調と腎臓病のためなお刑務所内に横たわっていて、9月26日、だれもみとる者のない独房で、寝台からひとりころげ落ちて死んでいた」 [人間臨終図巻/山田風太郎]

                                • -

三木清の言葉
「人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない」
「人は軽蔑されたと感じたときによく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない」

                                • -

三木清 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=f&oq=%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%B8%85&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%B8%85&gs_upl=0l0l1l2470631lllllllllll0&aqi=g5&oi=image_result_group&sa=X