じじぃの「人の死にざま_1153_米内・光政」

米内光政 - あのひと検索 SPYSEE
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昭和宰相列伝2 近衛文麿他 (1937-1941) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=74h-Pvya1Ow
米内光政 ウィキペディアWikipedia)より
米内光政は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。
連合艦隊司令長官海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任した。
東京裁判
戦後の極東国際軍事裁判では証人として1946年(昭和21年)3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。
その上で、満州事変・日中戦争・日米開戦を推進した責任者として、土肥原賢二板垣征四郎武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、東條英機の責任については言明する事がなかった。
一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれることになった畑俊六に対しては、これをかばって徹底的にとぼけ通し、ウィリアム・ウェブ裁判長から「You are the most stupid prime minister I have ever seen.(こんな阿呆な総理大臣を見たことがない)」と罵られた。一方で、ジョセフ・キーナン首席検事はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。国際法廷の席上であのような態度をとれる人間はいない。」と敬意を表し、日本を離れる際自筆の晩餐会招待状を送り、健康上の理由で米内が断っても「是非お会いしたい」と何度も招待している。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
米内光政(よないみつまさ) (1880 - 1948) 68歳で死亡。 (一部抜粋しています)
断乎(だんこ)として終戦に導き、終戦時にあっては厳乎として海軍を抑えた米内は、しかしすでに昭和20年4、5月ごろには、心臓は脊椎(せきつい)にくっつくまで肥大し、肝臓も悪く、血圧は260を数え、夜中、4、5回厠(かわや)に通うほど健康を害していた。
小泉信三は書く。「白皙(はくせき)豊頬の美丈夫であったが、晩年、殊に終戦の後は、頬の肉がにわかに落ちて別人かと思われるようになっていた」緒方竹虎も書く。「あの堂々たる偉体は、見るかげもなく憔悴して昔日の俤(おもかげ)を失ってしまった。それは一切の闇物質を口にせず、栄養不足にもあったろうが、さらに彼の、国家の将来を思い既往(きおう)に哭(こく)する傷心の大きかったことによるものが多かったと思われる」昭和20年11月29日の『戦中派不戦日記』に山田風太郎は記す。
「きのうの議会『正義を叫ぶべくわが国はその力を失っている』と首相の述懐。議員、戦争犯罪人を糾弾せよと吼(ほ)えまくる。 『軍として国民の前に深くおわびを申しあげる。ただ、尽忠の将兵と英霊には御同情を……』と壇上手をついて首を垂れる下村陸相。野次の嵐に、ただ一人軍服の巨艦黙して語らぬ米内陸相。 終戦のダサクサに軍用品を持逃げした不心得の軍人は許せないが、この最後の陸海両相の態度は悲壮見事にして、いかにも日本人らしく武士的である」
米内は空襲によって家も家財も全焼したが、わずかに誰かが運び出したらしい米内家累代の重箱と、翡翠(ひすい)の原石と中国製の花瓶を、終戦後知人に売却を依頼し、それが1方円で売れたことを報告すると、ついぞ金のことなど口にしたことのない米内が、「ほう、そんなに高く売れましたか」と、よろこんだ。ときに老軍人の自殺記事が新聞に出ると、「自殺するのは感心しませんね」と、ポツンとつぶやいた。
昭和22年9月下旬、彼はA級戦犯、陸軍の畑俊六大将の弁護側証人として東京裁判に出廷したが、検事の尋問にとんちんかんの返答を繰返し、ウェッブ裁判長から「これほど愚かな証人ははじめてだ」と罵言(ばげん)を受け、あとでさすがは米内だ。よくとぼけ通したと妙なほめ方をされたが、別にまた、実はこのときの法廷通訳が終始メチャクチャな通訳をやったので、結果出来に米内が不得要領な返答をしたのだ。彼はそんな人を喰ったお芝居をやるにはあまりに誠実すぎる人物だという説があり、おそらくこの方が当たっているだろう。
やがて米内には神経痛が出てきて、ついで中耳炎、さらに激痛を伴う帯状疱疹(たいじょうほうしん)という奇病に苦しむようになった。そして、昭和23年4月20日、目黒富士見台の家で死去した。
東京裁判で証人として出廷した彼は、東条らA級戦犯たちより8ヵ月も先立ってこの世を去ったのである。

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