じじぃの「人の死にざま_1409_吉田・善吾」

吉田善吾

吉田善吾 ウィキペディアWikipedia)より
吉田 善吾(よしだ ぜんご、明治18年(1885年)2月14日 - 昭和41年(1966年)11月14日)は、日本の海軍軍人。海軍大将正三位勲一等。 海軍大臣連合艦隊司令長官を歴任した。
【経歴】
佐賀県出身。
昭和12年(1937年)12月1日からは連合艦隊司令長官を務めるが、昭和14年(1939年)8月30日に阿部内閣の海軍大臣に就任。
吉田は部下の使い方があまり上手ではなかった。同期の山本五十六は、吉田の大臣就任に際し、吉田の将来を危惧し海軍次官留任を申し出たが、山本は連合艦隊司令長官として海上に出ることとなった。しかし後任の住山徳太郎は山本や井上成美のように強力に吉田を補佐できるタイプではなかった。閣内でも外相・蔵相がともに三国同盟反対だった米内の海相当時と違い、第2次近衛内閣の松岡洋右外相は熱心な三国同盟推進派であり、吉田は心労をつのらせる。周囲は辞任を勧めたが、吉田は自らの辞任が国際関係に悪影響を及ぼすことを避けるべく、職務に励み続けた。しかし限界を迎え、日独伊三国同盟の締結直前に病気により辞任した。自殺未遂という説もある。後任の海軍大臣及川古志郎は三国同盟に同意した。なお吉田は消極的ではあったが、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」や、出師準備の発動を認めている。

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『昭和史 1926-1945』 半藤 一利 平凡社 2004年発行
なぜ海軍は三国同盟にイエスと言ったか (一部抜粋しています)
独ソ不可侵条約の報せに驚いて「複雑怪奇」の言葉とともに平沼麒一郎内閣が辞職した時、次の内閣の海相にという声もあった山本五十六海軍次官は、暗殺の危険を避けるため連合艦隊司令官として海に出ましたが、「これで問題が解決したわけではない、この先どうなるでしょう」と尋ねられ、「いや、誰が出てきても三国同盟には反対だから安心だよ」と答えたといいます。そして結果的に、吉田善吾が海相になったのは前回話したとおりです。
その吉田海相の周りにいたのは、次官の住山徳太郎中将、軍司令総長は変わらず伏見宮、次長は近藤信竹中将、作戦第一部長に宇垣纒少将、作戦第一課長に中沢祐大佐、先任部員に川井巌中佐、次席部員に神重徳中佐らでした。中沢さんを除いて、どっちつかずの住山さんはともかく、その下は皆、どちらかといえば親独にして対米強硬派でした。
海軍の方針は、吉田海相になる前から決まっていました。
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アメリカが昭和15年1月に日米通商航海条約を完全廃棄したばかりでなく、ルーズベルト大統領は、石油や屑鉄などの日本への輸出を政府の許可制にしました。これは日本海軍には衝撃でした。いくら軍艦があっても燃料がなければ動かすこともできない、ならば万一に備えて鉄や石油などがとれる東南アジアのジャワ、スマトラ、ボルネオといった資源地帯に進出し資源を確保する必要がある。それにはどうしても仏印(フランス領インドシナ三国、とくに現在のベトナム)まで兵力を進出させておく必要がある、いざとなればそこを基地にしてアメリカの根拠地フィリピンを叩かねばならないからです。しかし南進をあらわにするとアメリカは怒って日本への輸出を全面禁止とするだろう、ならばいっそう開戦に備えて油田獲得のためオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領するほかはない、となると、これはもう明らかに対米戦争は必至……という堂々めぐりの結果、現在のベトナムへの進出の必要性が出てきたのです。
アメリカの輸出許可制などの措置は、明らかに日本に対する戦争を前提にした脅迫行為であす。それゆえますます三国同盟の必要性が強調されてきても、米内・山本・井上トリオの流れを汲む吉田海相は「ドイツと同盟を結ぶことはイギリスひいてはアメリカと敵になることであり、亡国への道だ」となかなか承知しませんでした。
そこで海軍の強硬派は、アメリカを牽制しつつベトナムに基地を設ける必要があると主張して内部から揺さぶりをかけました。部内で浮き上がった吉田海相は眠れない夜が続きます。吉田の戦後の手記があります。
「八月下旬に至り連日にわたり下痢を催(もよお)すこともあり、精力の減退少なからざるを感ず。時々頭痛を覚え、夜中に寝汗を催すこともしばしばであった……」
半分ノイローゼです。そこに9月1日、海軍きっての政治的軍人として知られ、松岡外相とは同じ長州出身で仲のいい石川信吾大佐がやってきて、強引に談判します。
「こうなればもはや理屈じゃなくて、イエスかノーか二つのうち一つです。決心の問題です。大臣の肚(はら)ひとつです」
下剋上そのものです。吉田海相はその翌日、大臣室を訪ねた近藤中将の胸ぐらを取り、声を震わせて、
「きさまらはこの日本をどうするつもりか」
と怒鳴ったと秘書官が伝えています。完全に孤立した時のことが、手記にはこうあります。
「心根消耗して実行力尽き如何ともすべからず……この重大事にこの為体(ていたらく)、健康の為とは申しながら遺憾限りなく、憤然自決せんとまで心せる機もありしほどにて、遂にそのまま倒れ、……」
自殺まで考えたが、その機を得ず逆に消耗して倒れてしまったと。いや、毒薬を飲んだものの発見されて命を取りとめ、もはやつかいものにならなかったという話もあります。『昭和天皇独白録』には「……心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが止められて果さず後辞職した」と記されています。