じじぃの「人の死にざま_1105_東郷・茂徳」

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東京裁判 動画 デイリーモーション
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東郷茂徳 ウィキペディアWikipedia)より
東郷茂徳は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣
欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。
東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
東郷茂徳(とうごうしげのり) (1882-1950) 68歳で死亡。 (一部抜粋しています)
秀吉の征韓の役に際し、島津義弘によって薩摩に強制連行された朝鮮陶工の子孫、朴茂徳は4歳のとき東郷と改姓し、昭和16年東条内閣において外相の地位にあった。
そのとき日米交渉において、アメリカからつきつけられたハル・ノ―トの苛酷さに彼は憤然開戦に踏み切ったが、のちその責任を深く感じ、20年の鈴木内閣の外相としては終戦に死力をつくした。
当時の東郷を下村海南は描く。
「彼の顔面は蒼白である。切れ目で、とげとげしい。言葉は切口上で、声はかすれて鼻にかかっている。愛想とか愛嬌とかはどこかへ置き忘れている。秋風粛殺(しゅくさつ)、木枯しの寒々とした感じである。話ににべがなく取りつくシマもない。開戦時外相であった彼の態度にグル―米大使が反感を持ったというが無理もない。・・・」
敗戦後、東京裁判A級戦犯として被告席にひき出された彼は、日本と自分の名誉のために不撓不屈の闘志をもやした。開戦の通告問題で海軍の島田元海相と烈しい論争をしたのもそのためであった。
昭和23年彼は禁錮20年の判決を受けたが、その後彼の最後の戦いが始まる。それは自分の回想録の執筆であった。
のちに『時代の一面』と題されたこの回想録は、昭和25年1月5日から3月14日までかけて、400字詰原稿用紙にして800枚にも及ぶ膨大なものであった。その間、厳冬の独房で彼は何度か風邪をひいたが、アメリカ側の手当ては充分ではなかった。しかしそれに耐えて彼はこの回想録を完成させた。
東郷はすでに狭心症の持病を持ち、また前年の暮れには黄疸症状を起したことがあったが、5月17日朝から突如悪寒高熱を発し、アメリ陸軍病院に入院した。
その後快方に向かったが、7月21日午後容態急変し、聖路加病院に移された。そして23日午前5時25分、だれひとり看取る者もなく絶命した。病名は動脈硬化による心疾患と急性胆嚢炎。
辞世。
人の世は風に動ける波のごと
そのわだつみの底は動かじ

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