じじぃの「人の死にざま_698_小村・寿太郎」

小村寿太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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日本のリーダー 鳩山由紀夫VS小村寿太郎 動画 YouTube
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2011年で没後100年 小村寿太郎候墓前祭 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qSjmB6cY-7A
小村寿太郎
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小村寿太郎 ウィキペディアWikipedia)より
小村壽太郎は、明治の外交官、政治家。外務大臣貴族院議員などを務めた。侯爵。小村寿太郎とも表記される。初代拓務次官の小村欣一は長男。
【経歴】
安政2年(1855年)9月16日、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。明治3年(1870年)、大学南校(東京大学の前身)に入学。第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学んだ。
1901年(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。1902年(明治35年)、日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込む。その功により男爵を授けられる。日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。ただし、その後にアメリカの鉄道王・ハリマンが満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。日露講和条約締結の功により伯爵に陞爵。
1908年(明治41年)成立の第2次桂内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。1911年(明治44年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進めた。韓国併合の功により侯爵に陞爵。
同年の桂内閣総辞職に伴い政界を引退するも、同年11月26日、結核療養のために滞在していた葉山町の別荘にて死去。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
小村寿太郎(こむらじゅたろう) (1855-1911) 56歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治38年9月、外相として日露戦争終結させるポーツマス会議を終えた小村は、その苦心と疲労のために、ニューヨークのホテルで高熱を出して倒れてしまったほどであった。
それでもこの講和条約に不満な日本人は、東京で焼打ちなどの暴動を起し、小村の留守家族の住む外相官邸も暴徒に襲われた。10月帰国した小村は、横浜に出迎えた息子の欣一に、「お前まだ生きておれたのか」と、いった。
その後駐英大使を経て、明治41年第2次桂内閣で2度目の外相に就任した。43年、日刊併合のころは、すでに肺患が進んでいて、その衰えが人の眼にも明らかになったが、彼を知る青山胤通博士は、
「小村さんは意志力だけで生きているのだ。ふつうならもう冥土にいっている身体だ。いま仕事をやめろということは、小村さんに死ねということだ」
と、いった。
果たせるかな、明治44年8月、桂内閣とともに外相をやめると、彼の健康は急速に衰え、葉山の別荘に隠棲(いんせい)したままになった。極めて清廉(せいれん)な彼は生涯官舎に住み、東京に本邸を建てたことがなかったから、そこが唯一の家であった。
外相就任跡2ヵ月、11月にはいると病あらたまって病床につき、23日から頭部頚椎症状に苦しみ、翌日からの脳膜炎初期の兆しを呈するにいたった。
25日、寺内正毅が見舞いに来たとき、寺内が泣きながら抱きつくと、小村は大声で「明日(あした)」とさけんだ。
その翌日の26日夜明けのころ、彼は、死んだ。

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