じじぃの「世界遺産・サハラ砂漠の岩絵・円頭人物・泳ぐ人!本当はどうなんだろう」

SAHARA - JABBAREN - TASSILI-N-AJJER 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=fM9NNv1PMlc
Tassili N'Ajjer Film Excerpt 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wByZWM4cSqg&feature=related
タッシリ・ナジェール 頭のとがった人物画 画像
http://www.fivestar-club.jp/fscdir/photolib/algeria17/algeria0333.jpg
タッシリ・ナジェール 泳ぐ人 画像
http://gruponexus.files.wordpress.com/2008/10/tassili_017.jpg
タッシリ・ナジェール Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB&oi=image_result_group&sa=X
世界遺産 タッシリ・ナジェール岩絵トレック 11日間 アフリカ旅行の道祖神
http://www.dososhin.com/tour/44.html
サハラ砂漠はいつから砂漠だったの? 2007/01/10 教えて!goo
サハラ砂漠などの砂漠は人が木を切ったから砂漠になったのか、もともと砂漠だったのかどちらなのでしょう?いつから砂漠だったのでしょうか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2654124.html
サハラ砂漠 ウィキペディアWikipedia)より
サハラ砂漠はアフリカ大陸北部にある世界最大の砂漠。東西5600km、南北1700kmで面積は約1000万km2であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占める。
【砂漠化の進行】
サハラ一帯は、完新世(1万年前〜現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返して来た。およそ8000〜5000年前までの期間は湿潤で、以来現在に至るまでは乾燥した気候が続いている。20世紀以降では、1915年頃以降降水量は増加したが、1920年代以降現在までは降水量は減少傾向にある。
1960年代以降、サハラ地域を含めアフリカでは人口爆発が続いている。食料増産・生活のため、焼畑農業・過放牧・灌木の過度の伐採が行なわれ、生態系が破壊される悪循環が繰り返されている。
【歴史】
●ブバルス時代:紀元前35000年頃から紀元前8000年頃
 野牛、ゾウ、カバなど、今日ではこの地域で絶滅した動物が生息したことが伺われる。
 人間はおもに棍棒武装したものと推定される。ほかに斧や弓も使用されたが、槍は使用されなかった。また一部では兜も用いられた。
●家畜時代:紀元前7500年頃から紀元前4000年頃
 家畜の飼育が普及した。ヒツジとヤギが飼育され、窯業が始まった。
 研磨による石斧や石の鏃などが生産されるようになった。弓矢は主に狩猟のために使用された。家畜類はアジアから輸入された。
 この時代の後期には、村落が形成され、いままでより多数の人口が維持可能になった。また家畜の群れを飼育することも行われるようになった。
●イマジゲン時代:紀元前3000年頃から紀元前700年頃
 この時代の初期にはウマ、ラクダ、乳牛の飼育が行われるようになった。イマジゲンとはいわゆるベルベル人のこと。
 紀元前1220年頃から、フェニキア人との交易により鉄器がもたらされた。
 サハラ砂漠からエジプトに渡っていくつかの王国による連合体が作られた。これらの王国は海岸付近に位置したが、中には砂漠の中に及ぶものもあった。
タッシリ・ナジェール ウィキペディアWikipedia)より
タッシリ・ナジェールは、アルジェリア南東部、サハラ砂漠にある台地状の山脈。およそ500kmにわたり拡がっており、最高点は標高2158mの Adrar Afao(北緯25度10分、東経8度11分)である。最も近い町は山脈の南西約10kmにあるジャーネットである。
台地を侵食した渓谷には糸杉が点在し、考古学的な景観も含んでいることから、「タッシリ・ナジェール国立公園」として国立公園、生物圏保護区、ラムサール条約登録地に指定されており、ユネスコ世界遺産にも登録されている。
【先史的な芸術】
山脈はまた、先史的な岩絵群や他の考古学的景観で知られている。それらは、一帯が砂漠でなくサバンナに恵まれ湿潤だった新石器時代に遡るものである。岩絵には、牛の群れ、ワニなどの大型生物、狩猟や舞踏といった人々の活動などを活写している。
その様式は南アフリカの前ングニ美術や、西暦1200年以前にサン族によって描かれた洞窟壁画などとも類似性を持つものがある。

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世界遺産ライブラリー [タッシリ・ナジェール] 2006年11月2日 NHK世界遺産
世界最大の砂漠、サハラの真ん中に位置するタッシリ・ナジェール山脈。
頂上付近、標高2000メートルの台地には、茸のような形の岩が、塔のように並び立ち、さながら別の惑星のようです。さらに、この奇岩の岩陰には、古代人の描いた不思議な絵が、2万点以上も隠されているといいます。
地元の遊牧民トゥアレグ族の案内でたどり着いた岩の林の中には、確かに8000年前ごろから描かれたという絵がありました。ダンスに興じる古代人の姿や、動物たちが躍動感いっぱいに描かれています。その中には、牛や羊の群れ、そしてキリンの姿なども数多くありました。しかし、サハラは、1年に数ミリの雨しか降らない不毛の大地のはず。なぜ、この地に、大量の草を必要とする、そうした動物が存在したのでしょうか。
「シリーズ世界遺産100」では、タッシリ・ナジェールに残された数々の岩絵を紹介しながら、サハラの大地が辿った驚くべき歴史に迫ります。
https://bh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=602-20160226-10-08199
『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』 平川陽一/著 PHP研究所 2010年発行
砂漠の中の岩絵に、なぜ宇宙人が描かれいるのか? 【遺跡名】 タッシリ・ナジェール (一部抜粋しています)
世界最大の砂漠であるサハラ砂漠。まるで、この地は地球誕生以来、生き物を寄せつけない不毛の砂の大海原であったように、視界に入るものはただ砂の山である。しかし、砂漠は想像以上に流動的で、風が吹くたびに砂塵が舞い上がり、サラサラと落ちて、砂紋を描く。砂漠は一瞬たりとも同じ表情を見せることがなく、ある意味では、最も多様性に富んだ空間なのだ。
そして、その多様性ゆえにサハラは多くの人々を惹きつけてきた。19世紀、探険熱が盛んになると、ヨーロッパ各国は次々と探険隊を組織しては、サハラの自然の解明に挑んできた。
それからぐっと時代が下がった1956年、フランスの考古学者アンリ・ロートは10人ほどの探険隊を組んで、サハラに出かけた。だが、彼の探険の意図はほかの探険隊のそれとは最初から異なっていた。彼の目的は砂漠の研究ではなく、この地に水の痕跡を発見することだった。
「『タッシリ・ナジェール』というのは現地語で水量の多い土地を意味する……」
こう小耳にはさんだロートは、サハラにかって豊かな水があったことを確信する。そして、どうしてもその物証を発見したくなり、不毛のサハラに足を踏み入れたのである。
だが、行けども行けども、目に飛び込んでくるのは、水とは永遠に無縁であったとしか思えない光景ばかりであった。ついにロートは撤退を決意する。
「退路をとる前に、あの山のふもとで一休みしよう」
ロートがこう告げると、一行は我先にと山のほうにかけ出した。日中の砂漠はさえぎるものがないために、激しい炎熱にさらされ、日陰に身を休める瞬間だけがほっと一息つけるからだ。この山裾の岩肌で世紀の大発見がなされるなど、誰も創造もしていなかったに違いない。
一行が目にしたのは、岩肌に描かれた、生き生きした動物の絵だった。大きく岩がえぐられて半洞窟になった内側にあったためか、絵は鮮やかな彩りを残していて、筆致も驚くほど達者である。この絵の存在は、かってサハラには人が住んでいたことを明確に物語るものにほかならない。
人は水のないところには住むことはできない。そう考えれば、かってサハラには水があり、そこには人が住んでいたに違いない。ロートの直感はみごとに証明されたのである。
その後、繰り返し行われたロートの探索によって、タッシリ・ナジェールの岩絵は中石器時代から紀元ごろまで、実に数千年にわたって描き続けられたものとわかった。顔料はタッシリ・ナジェールに豊富にある黄土色の頁岩(けつがん)が主だ。頁岩は含まれる酸化鉄の量によって、黄色、褐色、赤色などさまざまな色を表現できる。
また、時代によって絵のテーマが異なることも明らかになった。最も古い時代のものは「バイソンの時代」と呼ばれ、ゾウ、カバ、サイ、キリン、バイソンなどが描かれた。
次の時代になると、動物の絵に狩猟中の人の絵が加わる。この時代をロートは「狩猟民の時代」と名付けている。狩猟民の中には入れ墨をした人物や黒人の姿も交っている。サハラに黒人が住み着くようになったのは、この絵が描かれた時代からだったことを物語っている。
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ロートを最も狂喜させたのは、これらの絵の中に、舟の絵や魚の絵も多く交っていたことだ。舟の絵があるということは、かってこの一帯には、豊富な水の流れがあり、人々は舟を操り、魚を釣り、食用などにしていたことを実証するものにほかならなかったからだ。
岩絵の周囲を掘り下げてみると、予想どおり、ワジ(太古、川だった跡)も発見された。そのうえ、落差500メートルという大きな滝の跡もあった。東京タワーより150メートル以上も高いところから、大量の水が牙をむいて落下する。太古にはサハラはそんな場所だったのだ。タッシリ・ナジェール、豊かな水量のある土地、という地名にウソはなかった。この地名はあるいは、この滝から名付けられたのかもしれない。
岩屋の区分はそのまま、サハラの水資源が枯渇に向かう様子をよく表している。「バイソンの時代」のころ、このあたりは水にあふれ、おそらく雨期には一面が湿地のようになったに違いない。雨期と乾期の間には、あたり一面草の海になり、草食動物たちの天下だった。ゾウ、カバ、サイ、キリンなどの大型草食動物が悠々、生息できる条件が整っていたのである。
だが、サハラはしだいに乾燥が進み、動物の数は減少していき、必要な動物は狩猟にでかけなければ手に入らなくなっていったのだ。最後には、砂漠に強いラクダに頼らなければ、この地での生活はむずかしくなった……。ちなみに「ラクダの時代」とは、紀元前1000年ごろから始まっている。
タッシリ・ナジェールの岩絵の変遷は、現在、豊かな緑に覆われた生活環境も、一面の砂の原に代わってしまうこともあり得ることを物語って、鬼気迫るものがある。
また、タッシリ・ナジェールの岩絵は、その時々のこの地における人々の暮らしを忠実に描いたものであることも確かな事実だといっていい。
ところが、これらの絵の中に、どうしても説明のつかない絵が交じっているのだ。
その絵は、何十回目かの探険のときにようやく発見されたほど、深い岩窟の中に岩壁いっぱいに描かれていた。全体の様子はどうやら人に似ている。ロートが別に「円頭人物の時代」と呼んでいるように、頭の毛はまったくないか、ヘルメット状のものをかぶっており、顔には目鼻が描かれていない。もともと目鼻が描かれた痕跡が見出せないのだ。
最大のものは高さ5メートルほどもあり、壁いぅぱいに両手を上げて、人々を守っていうようにも見えれば、反対に威嚇しているようにも見える。
伝在、我々はこの絵によく似た絵や写真を目にする機会が多い。この絵は幼稚ではあるが、全体の印象、首の回りにある筋などディテールに至るまで、現代人が想像する、宇宙人にそっくりなのだ。

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どうでもいい、じじぃの日記。
平川陽一著 『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』という本を見ていたら、「砂漠の中の岩絵に、なぜ宇宙人が描かれいるのか?」というのがあった。
タッシリ・ナジェールは、アルジェリア南東部、サハラ砂漠の山脈にある台地で、考古学的な景観も含んでいることから1982年にユネスコ世界遺産に登録された。
「『タッシリ・ナジェール』というのは現地語で水量の多い土地を意味する」
サハラ砂漠はかって、一面草が生い茂る緑の豊かな大地で、草食動物たちの天下だった。
アフリカ北東部は紀元前5000年頃までにはゾウ、カバ、サイ、キリン、バイソンなど動物が生息していた。タッシリ・ナジェールの岩絵には「泳ぐ人」の絵が描かれている。
アフリカ北東部はなぜ、砂漠化していったのだろう。
雨が降らなくなったのは、何かインドプレートとユーラシアプレートがぶつかる造山運動と関係があるのだろうか。造山運動で出来たヒマラヤ山脈が風向きを変えたのだろうか?
かって、メソポタミアも川が氾濫するほど雨が多く降り、緑の大地だった。
アフリカ北東部、西アジアに世界最古の文明であるエジプト文明メソポタミア文明が起こった。
彼らは木を倒し、牛や羊などの家畜を放牧していった。そして紀元前3000年頃から土地から水が蒸発し、地面には塩が残って土地を荒らしていった。
中国でも砂漠化が進んでいるという。
タッシリ・ナジェールの岩絵に描かれた人物画を見てみると、頭がやたらと円いのや、頭の無いのや、頭のとがったのやらいろいろ出てくる。
「砂漠の中の岩絵に、なぜ頭の円い宇宙人や頭のとがった宇宙人が描かれるのか?」
それだっら、
「砂漠の中の岩絵に、なぜ頭の無い宇宙人が描かれるのか?」
まあ。古代人の遊びですかね。