じじぃの「人の死にざま_697_岸田・今」

岸田今日子 - あのひと検索 SPYSEE
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キリンビール 岸田今日子  動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=n0TdiT24P54
ムーミン 第26話「ノンノンこっちむいて」 ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2244917
岸田今日子 ウィキペディアWikipedia)より
岸田今日子(きしだきょうこ、1930年4月29日-2006年12月17日)は、日本の女優、声優、童話作家。血液型はA型。身長156㎝。
自由学園高校卒業。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士(くにお)、母は翻訳家の岸田秋子 。姉に詩人で童話作家岸田衿子、従弟に俳優の岸田森がいる。俳優の仲谷昇は元夫。
吉行和子冨士眞奈美と親友であった。
【経歴】
東京府豊多摩郡(現在の東京都杉並区)に劇作家の岸田國士・秋子夫妻の次女として生まれる。
1954年、文学座に所属する(演技だけでなく当時二枚目俳優としても評判の高かった)仲谷昇と結婚。妊娠したが俳優という休めない仕事の影響もあり、一度流産を経験する。1960年、三島由紀夫演出の『サロメ』で主役に抜擢されて以降、テアトロン賞を受賞した『陽気な幽霊』をはじめ、数多くの舞台で多くの大役、難役をこなす。
映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、1964年には『砂の女』でブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派女優としての地位を確立した。
1968年に長女を出産する。俳優として評判が高く仕事に忙しい生活となっていた一方で、次第に夫との仲がうまくゆかなくなっていて、1978年に離婚。娘と二人の生活が始まった。
その娘に自分の仕事を理解してもらおうと、アニメ『ムーミン』のムーミントロールの声を担当。世間の子供たちにその声が愛されることになった。また、『ムーミン パペットアニメーション』ではムーミンを含めたすべてのキャラクターおよびナレーションまで一人で全部を演じわけている。
2006年12月17日午後3時33分、脳腫瘍による呼吸不全のため東京都内の病院で死去。76歳没。
趣味は麻雀で、1970年代に「週刊ポスト」で行われていた勝抜麻雀企画に出場し、阿佐田哲也に勝ったこともあるほどの強豪であった。

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『逢えてよかった!』 永六輔/著 朝日新聞社 1995年発行
岸田今日子さん――忘れてない子供のための仕事 (一部抜粋しています)
僕が出演者としてテレビで初めて仕事をしたのは『サンディ・ナイトショー』(日本テレビ)の司会で、パートナーは岸田今日子さんであった。
25年も前の話だが、当時の岸田今日子さんは新劇から映画『砂の女』で鮮烈なデビューを飾ったころである。僕は放送作家として10年のキャリアはあったが、出演するのは初めてなので岸田さんが頼りだった。
ゆったりと、あたたかく、艶っぽく、中でも岸田さんが天気図の前に立ち、自分の好きなように予報をするコーナーが楽しく、番組の魅力を象徴していた。
あの岸田節で「私は時雨(しぐれ)が好きなの、だから明日は日本中で時雨……」と勝手にやるのだから面白いのだが、当然のことながら気象庁からクレームがついてしまった。
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愛知県の鳳来寺山ろくに全寮制の理想的な高校をつくるというプランに仲間を誘って参加している。もちろん、僕も手伝っているのだが、ここでまた、25年前のように並んでいることが嬉しくてしょうがない。
ユニークな高校づくりに熱心なのはどうしてなのかと聞いたら――。
「私もずっと登校拒否してたから、学校に行かない子供とその親の気持ちはよくわかるのよ」

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週刊現代 2010年11月20日
もうジタバタしない 運命を知って、人生を知る――岸田今日子さんのことを思う (一部抜粋しています)
女優の富士眞奈美さんに話を聞いた。70代前半の富士さんは40年ほど前から句を詠み、句集『瀧の裏』やエッセイ集『てのひらに落華 俳句のある人生』を著(あらわ)している。
「私自身は、特に大病を患ったりしたことはないんです。好き勝手にやってきて、誰にも遠慮がないのが、健康にはいいんでしょうね、きっと。人の顔色を見たりするのが苦手で、嫌なことはしないんです。
でも、両親や、一番上の姉を亡くし、4年前には親友の(岸田)今日子ちゃんも亡くなった。その時々、死を悼(いた)んで句を作りました。思い出すほど悲しくなり、泣きながら作ったこともあります」
岸田今日子さんが脳腫瘍を患って入院したのは'06年1月、その病室を見舞ったとき、富士さんは、
 友見舞ふ
 暗渠(あんきょ)に積もる
 雪を踏み
と詠み、同じ年の12月、岸田さんが亡くなった際は、
 病室に
 友の訃(ふ)を聴く
 師走かな
という句を作った。そういった経験を経て、最近よく思うのは、心身ともに自由であることの大切さだという。
「数年前、敬愛する俳人金子兜太(とうた)先生に教えていただいた『荒凡夫(あらぼんぷ)』という言葉があります。平凡でも自由に生きる人、という意味で、もとは小林一茶の言葉です。
この頃、心身ともに自由であることのありがたさを痛感します。平凡だけれど、心はいつもさすらっていること、私の人生も、そう在りたい。そのためには心も体も健康で、自立していなければなりません」
また、自分の人生を振り返ることも多くなったという。楽しいことだけでなく、恥ずべきこともあったが、そんな自分を笑い者にしたり、叱りつけたり、愛したりするのだ。そして、富士さんはこの句を詠んだ。
 引き返す
 道はなかりし
 冬菫(ふゆすみれ)
人生は引き返すことはできないけれど、これからは冬の菫のように、ひっそり慎ましく生きて行けばきっと幸せだ。人生に対する富士さんの実感が、表れた句である。

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岸田今日子の句
「夏を病む 静脈に川の 音を聞く」

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岸田今日子 Google 検索
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