じじぃの「人の死にざま_985_阿南・惟幾」

阿南惟幾 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE/5615/
日本のいちばん長い日 映画予告まとめ☆リメイクは豪華キャスト!2015年8月8日公開! 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RK_UJNIEaA8
終戦放送 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TDgOFsH8PZo&feature=related
阿南惟幾

第25話「最後の決断」
http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/story/25.html
NHKスペシャル 「終戦 なぜ早く決められなかったのか」 2012年8月15日
【ゲスト】加藤陽子東京大学教授)、岡本行夫姜尚中 【出演】竹野内豊(俳優)
敗戦から67年を迎える太平洋戦争。その犠牲者が急激に増加したのは、戦争末期だった。勝敗はとっくに決していたにもかかわらず、なぜもっと早く戦争を終えることができなかったのか。当時の日本の国家指導者の行動や判断には、多くの謎や不可解な点が残されている。今回NHKは研究者の共同調査で、戦争末期の日本の終戦工作を伝える大量の未公開資料を、英国の公文書館などから発見した。それらによると、日本はソ連の対日参戦を早い時期から察知しながらソ連に接近していたこと。また、強硬に戦争継続を訴えていた軍が、内心では米軍との本土決戦能力を不十分と認識し、戦争の早期終結の道を探ろうとしていたことがわかってきた。1日でも早く戦いを終える素地は充分に出そろっていながら、そのチャンスは活かされていなかったのである。番組では、戦後に収録されながら内容が公開されてこなかった当事者らの肉声証言なども検証し、重要な情報が誰から誰に伝えられ、誰には伝えられなかったのかを徹底分析。国家存亡の危機を前にしながらも、自己の権限の中に逃避し、決定責任を回避しあっていた指導者の実態を浮かび上がらせる。国家的な岐路における重要な決定をめぐる課題について、識者討論なども交えて考えいく。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20120815
阿南惟幾 ウィキペディアWikipedia)より
阿南惟幾は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
陸軍大将や(第二次世界大戦終戦時の)陸軍大臣に上り詰めた逸材だが、異才の多い帝国陸軍にあってはごく平均的な軍務官僚で、陸相就任以前は目立ったエピソードも少ない。しかし誠実な人柄で人望が厚く、様々に解釈される後述の終戦時の言動も相まって評伝が数多く著されている。
【経歴】
父・阿南尚は大分県竹田市玉来出身だが、内務官吏であったため、幼少時は東京・大分竹田、徳島などを転々としながら育った。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、鈴木貫太郎内閣の陸相に就任する。
鈴木の侍従長時代、阿南は侍従武官を務め、ともに昭和天皇に仕えた間柄であった。この侍従武官時代、阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは鈴木内閣に加わってからも変わるところがなかった。和平派的見解の持ち主の鈴木と、本土決戦派の代表である阿南は意見の上では閣議や戦争指導会議で対立することが多かったが、この鈴木への強い尊敬から、影では陸軍の倒閣運動を押さえ込んだりして鈴木を支えている。
終戦について激しい議論が展開される閣議の合間、阿南は閣僚の一人であり同じ陸軍出身の安井藤治国務相に「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」と言っている。また終戦への基本方針が天皇の第一回目の聖断によって決まった8月9日の御前会議終了後、鈴木首相に「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と激しく詰め寄る吉積正雄陸軍軍務局長に、「吉積、もうよい」といって何度もたしなめたのも阿南である。
阿南は梅津美治郎参謀総長とともに本土決戦を強硬に唱えるが、昭和天皇の聖断によって最後には陸相として終戦詔書に同意。終戦詔書の作成においては陸軍の立場から「戦局日ニ非ニシテ」を「戦局必スシモ好転セス」とするなどの字句修正を求めた。終戦詔勅に署名したのち阿南は鈴木首相のもとを訪れ「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」と述べた。鈴木は「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」と答え、阿南は「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」といい、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去る。鈴木は「阿南君は別れを告げに来たんだね」とつぶやいたという。また阿南は、最も強硬に和平論を唱えて阿南と一番激しく対立した東郷茂徳外相にも「色々と御世話になりました」と礼を述べて去っている。自刃の前日には剣道範士斎村五郎と面会し剣道の稽古を願った。
その後、終戦に納得せず軍事クーデターを求める部下の軽挙妄動を厳しく戒めながら、1945年(昭和20年)8月15日未明、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で自刃(割腹)。介錯を拒み、早朝に絶命する。

                                    • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
阿南惟幾(あなみこれちか) (1887-1945) 58歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和20年8月14日、最後の御前会議を終ったあと、陸軍大臣阿南惟幾は、午後陸軍省に、なお抗戦をさけぶ将校たちを集め、「聖断下る。不服のものはまずこの阿南を斬れ」と、いった。
午後11時、彼は首相鈴木貫太郎を訪ね、終戦の議がはじまって以来、頑強に戦争継続を唱えた自分の無礼をわび、それはただ国体護持の念によるものであったからお許しを請う、と挨拶した。
彼が去ったあと、鈴木は迫水書記官長に、「阿南君はいとまごいに来たのだ」といった。
時計が15時に回ったころ、義弟竹下正彦中佐が陸相官邸を訪ねると、阿南は12帖の日本まで机に向かって遺書を書いていたが、竹下を見ると、「ちょうどよいところへ来てくれた」とよろこんで、二人で酒を飲みながらいろいろ話し合った。その中で阿南は、
「腹を切ったあともしバタバタしたときは、君が始末してくれ。しかし、まあそんな心配はあるまい」
といって、短刀を二振出し、一本をかたみだといって竹下に渡した。
午前3時ごろ、「あまり飲まれ過ぎては仕損じはしませんか」と竹下が心配して注意すると、「いや、血行がよくなると血がよく出て、かえって好都合だろう」と阿南は笑い、着換えをはじめた。いちど勲章を全部佩用(はいよう)した軍服を着てみたあとで、上衣をぬいで床の間におき、戦死した二男惟晟(これあき)の写真をその上においた。
雨戸のすきまから、夏の夜が白みかけているのがわかった。8月15日の朝が来ようとしていた。
そこへ大城戸憲兵隊司令官が、近衛師団の将校が叛乱を起こした事件を報告に来た。
「君が逢ってくれ」と阿南は竹下にいい、「夜が明けて来たから、そろそろはじめる」と、彼を応接室に去らせた。
しばらくして、竹下が戻って見ると、阿南は縁側で皇居のほうを向いて坐って、割腹を終ったところであった。それから右頸部を左手でさぐったのち、短刀でのどを切った。
      ・
「苦しくはありませんか」と声をかけたが、返事はなく、もう意識もないようであった。しかし手足がヒクヒク動くので、竹下は短刀をとり、右頸部を深く切ってとどめをさした。
机の遺書には、
「一死以て大罪を謝し奉る」
と、あった。
15日夜、陸相官邸から運ばれた阿南の屍体は、最後まで阿南と争い、戦争継続のクーデターを計って失敗し、宮城前で自決した彼の幕僚椎崎中佐、畑中少佐の屍体とともに、市ヶ谷台上の砲座で焼かれた。

                                    • -

阿南惟幾 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE&sa=X&oi=image_result_group